スレブレニツァの虐殺
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モリヨン将軍が去る前、将軍はスレブレニツァでパニック状態にある住民を集め、町は国連の保護下にあり、決してスレブレニツァの人々を見捨てたりはしない、と述べた[3][7]

1993年の3月から4月にかけて、数千人のボシュニャク人が国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の援助のもとでスレブレニツァを脱出した。サラエヴォのボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府はこの避難に対して、ボシュニャク人が多数派である地域におけるセルビア人勢力による民族浄化作戦を利するものであるとして反対した。セルビア人の当局はなおもスレブレニツァ飛び地の制圧を目指していた。1993年4月13日、セルビア人はUNHCR代表部に対して、ボシュニャク人が降伏しない場合、2日以内にスレブレニツァを攻撃すると警告した[45]。ボシュニャク人は降伏を拒否した。
スレブレニツァ「安全地帯」1994年9月時点でのボスニア・ヘルツェゴビナの支配勢力図。セルビアとの国境に近い東部ボスニアにあるボシュニャク人の飛び地がスレブレニツァとジェパである。
1993年4月: 安保理がスレブレニツァを「安全地帯」に指定

1993年4月16日国際連合安全保障理事会(国連安保理)は決議819号を可決し、「全ての部隊とその他当局者は、スレブレニツァとその周辺地域を安全地帯として扱い、いかなる武力攻撃やその他の敵対行動をとってはならない」とした[7][24][25][27][28]1993年4月18日UNPROFORの最初の部隊がスレブレニツァに到着した。

スレブレニツァ飛び地周辺へは、スルプスカ共和国軍のドリナ軍団3団からの千人ないし2千人の兵士が、戦車装甲戦闘車両大砲迫撃砲を装備して展開していた。飛び地に留まっていたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の第28山岳師団は、うまく組織されておらず装備も貧弱であった。確固たる指揮系統や伝達システムが無く、兵士の一部は古い狩猟用ライフルのみか全く武器を持っていない状態であった。きちんとした制服を持っていたのはごく僅かであった。

「安全地帯」の合意は、当初より双方の勢力によって侵された。国連保護軍のオランダ軍部隊の指揮官であったトマス・カレマンス(Thomas Karremans)中佐はICTYで証言し、彼の部隊がスレブレニツァに戻ることや装備や弾薬の搬入を、スルプスカ共和国軍によって妨害されたとした[36]。スレブレニツァにいたボシュニャク人は、セルビア人兵士による攻撃があることを訴えた。他方でセルビア人は、スレブレニツァのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍は「安全地帯」をスルプスカ共和国軍に対する反撃のための「便利な基地」として利用しており、国連保護軍はそれを阻止するいかなる手段もとっていないとした[25][36]。セフェル・ハリロヴィッチ(Sefer Halilovi?)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍のヘリコプターが飛行禁止区域を侵害して飛行し、彼自身の命令で弾薬を積んだ8機のヘリコプターを第28師団に送ったことを認めた。
1995年初め: スレブレニツァ「安全地帯」内の状況悪化

1995年初めには、スレブレニツァへの補給物資搬入は困難を増していた。既に乏しかった民間人用の物資は更に不足を極め、国連軍までもが食料、医薬品、弾薬、燃料の危機的なまでの不足に直面した。燃料などの不足により、オランダ部隊による飛び地内のパトロールは徒歩に切り替えられた。スレブレニツァから外に出たオランダ軍兵士は帰還を認められず[46]、その人数は600人から400人にまで減少した。3月から4月にかけて、オランダ部隊は2つの監視哨所、監視哨R(OP Romeo)および監視哨Q(OP Quebec)の近くでセルビア人勢力が増強されていることに気付いた。

1995年3月、和平合意に向けた交渉が進行中であり、国際社会から紛争終結への圧力があるにもかかわらず、スルプスカ共和国の大統領ラドヴァン・カラジッチは、スルプスカ共和国軍に対し、この飛び地に対する長期戦略に関する命令書を発した。


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