スレブレニツァの虐殺
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ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人が多数を占めていたのはボスニア・ヘルツェゴビナの国土の北部に位置するバニャ・ルカを中心とする北部ボスニア地方(ボサンスカ・クライナ)、および国土の最南端に位置するヘルツェゴビナ南東部であった。そして、サラエヴォより東のボスニア・ヘルツェゴビナ東部の、セルビアとの国境であるドリナ川西岸の東部ボスニア地方では、多くの地域でボシュニャク人が多数である一方、セルビア人も少なからざる人口比率を持っていた。紛争の初期の段階では、セルビア人勢力の支配地域はボスニア・ヘルツェゴビナの国土の南と北に地理的に分断され、互いに連続ではなかった。また東部ボスニア地方ではボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府の支配地域と、セルビア人勢力(スルプスカ共和国)の支配地域が複雑に入り組んでいた。

第54回国際連合総会でなされたスレブレニツァの虐殺に関する報告では、東部ボスニア地方でのセルビア人勢力の主目的を、「地理的に連続し民族的に純粋な領土をドリナ川に沿って確保し、この領域で戦闘に従事する兵士を解放して他の地域へと振り向けること」であったとしている[20]
事件に至るまで

1992年にスレブレニツァで、ムスリム武装勢力のリーダー、ナセル・オリッチによって、セルビア人が約1200人殺害された[21]。セルビア人勢力は、南北のセルビア人地域をつなぎ、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保する目的で[22]東部ボスニアでの戦闘を優位に進めた。そして、フォチャズヴォルニクツェルスカなどでボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返した[23]1993年頃にはこれらの地域の多くがセルビア人勢力の支配下となり、ボシュニャク人は一掃された。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(Armija Republike Bosne i Hercegovine; ARBiH)に守られたジェパおよびスレブレニツァには周辺地域から逃れてきた多くのボシュニャク人が流れ込み、四方をセルビア人勢力に包囲され、孤立していた[3][18]。1993年4月、国際連合はスレブレニツァを「安全地帯」に指定し、攻撃を禁じた[24][25][26][27][28]。この安全地帯構想は、スレブレニツァにおいてはセルビア人勢力にのみ武装解除を迫るものだった[21]国際連合保護軍がスレブレニツァに送られたものの、その数は少数に留まった。その後も、スレブレニツァへの物資の搬入はセルビア人勢力の妨害により困難となり、武器、水、食料、その他あらゆるものが不足する状況となった。1995年7月までには、包囲されたスレブレニツァでは市民も国連軍も困窮し、市民のなかには餓死者も出るようになっていた[29]
虐殺事件

1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した[4][25]。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人[30]の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された[18][26][27][28][31]。その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている[4][32][33][34]。ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[13]
事件後の経過: ジェノサイドとしての認定

スレブレニツァの虐殺は第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺である[35]2004年ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)での「検察官対クルスティッチ(Prosecutor v. Krsti?)」の裁判において、満場一致のもと、スレブレニツァの虐殺はジェノサイドであると認定された[18][36][37]。裁判長テオドル・メロン(Theodor Meron)はその声明において、判決文から以下を含む部分を引用した。ボスニア・ムスリムボシュニャク人)の一部を消し去ることを目指し、ボスニアのセルビア人部隊はジェノサイドを犯した。彼らは、ボスニア・ムスリム一般を象徴する存在であった、スレブレニツァに住む4万人のボスニア・ムスリムの絶滅を目標とした。全てのムスリムの男性捕虜から、軍人も民間人も、老いも若きも別なく、所持品や身分証明書を奪い、意図的かつ組織的に、単にその身元(アイデンティティ)だけを根拠に殺害した。 ? 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[38]

2007年2月国際司法裁判所(ICJ)は、スレブレニツァの虐殺がジェノサイドであったとするICTYの判断を確認し[37][39]、次のとおり言明した。スレブレニツァで行われた、条約(ジェノサイド条約)第II条(a)および(b)に該当する行為は、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人集団自体を一定程度に破壊する明確な目的をもって実行されたと、裁判所は結論する。従ってこれらの行為は、1995年7月13日前後以降にスレブレニツァおよびその周辺にてスルプスカ共和国軍の構成員によって行われたジェノサイド行為である(と結論する)。 ? 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[40]

声明はまた、セルビアはこのジェノサイドを阻止するために可能な限りの手段を尽くさなかったこと、セルビアがICTYに全面的に協力する必要があること、セルビアはICTYにジェノサイドその他の容疑で訴追されている人物をハーグへと送らなければならないこと[41]、ICTYから逃亡中の人物が依然多数であること、それらがスルプスカ共和国セルビアの支配領域の中に潜伏していることにも言明した[42]


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