スレブレニツァの虐殺
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2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された[14][15][16]

なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。
概要
紛争に至るまで

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人セルビア人クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた[注釈 2]1990年ユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め[3][18][19]ボシュニャク人アリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。
東部ボスニア地方での紛争の背景

ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人が多数を占めていたのはボスニア・ヘルツェゴビナの国土の北部に位置するバニャ・ルカを中心とする北部ボスニア地方(ボサンスカ・クライナ)、および国土の最南端に位置するヘルツェゴビナ南東部であった。そして、サラエヴォより東のボスニア・ヘルツェゴビナ東部の、セルビアとの国境であるドリナ川西岸の東部ボスニア地方では、多くの地域でボシュニャク人が多数である一方、セルビア人も少なからざる人口比率を持っていた。紛争の初期の段階では、セルビア人勢力の支配地域はボスニア・ヘルツェゴビナの国土の南と北に地理的に分断され、互いに連続ではなかった。また東部ボスニア地方ではボシュニャク人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ政府の支配地域と、セルビア人勢力(スルプスカ共和国)の支配地域が複雑に入り組んでいた。

第54回国際連合総会でなされたスレブレニツァの虐殺に関する報告では、東部ボスニア地方でのセルビア人勢力の主目的を、「地理的に連続し民族的に純粋な領土をドリナ川に沿って確保し、この領域で戦闘に従事する兵士を解放して他の地域へと振り向けること」であったとしている[20]
事件に至るまで

1992年にスレブレニツァで、ムスリム武装勢力のリーダー、ナセル・オリッチによって、セルビア人が約1200人殺害された[21]。セルビア人勢力は、南北のセルビア人地域をつなぎ、地理的に連続で民族的に純粋な領土を確保する目的で[22]東部ボスニアでの戦闘を優位に進めた。そして、フォチャズヴォルニクツェルスカなどでボシュニャク人住民の殺害や強制追放を繰り返した[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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