スレブレニツァの虐殺
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当時国連軍の管理下にあり「安全地帯」(非武装地帯)とされていた当地において、セルビア人ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人イスラム教徒)が殺害された[3][4][5][6][7]。スルプスカ共和国軍に加えて、クライナ・セルビア人共和国を拠点とする準軍事組織「サソリ」(?korpioni)も虐殺に加担していた[8][9][10][11][12]

ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[13]。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された[14][15][16]

なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。
概要
紛争に至るまで

ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年までユーゴスラビアの連邦構成国であり、宗教の異なるボシュニャク人セルビア人クロアチア人の3民族が人口比率の上で拮抗していた[注釈 2]1990年ユーゴスラビアが民主化され、複数政党制が導入されると、その構成国であったボスニア・ヘルツェゴビナではそれまで禁じられていた民族主義勢力が選挙で勝利を収め[3][18][19]ボシュニャク人アリヤ・イゼトベゴヴィッチが大統領に選出された。当時のセルビアはユーゴスラビアの一部であった一方、クロアチアは既に独立を果たしており、ボスニア・ヘルツェゴビナでもボシュニャク人とクロアチア人は独立を望んでいた。1992年には独立の可否を問う住民投票の結果を受けてボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言した。これに対して、数の上で最大となるボシュニャク人による支配を嫌い、クロアチア人とセルビア人の民族主義者はボスニア・ヘルツェゴビナの中央政府を去り、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にそれぞれ民族独自の共同体ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国およびスルプスカ共和国を設立し、両者とボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府の3者によるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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