スレイマン1世
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オスマン帝国はこの時点でもまだ支配が安定せず、1522年から1524年にかけてエジプトで反乱が起こったが、イブラヒム・パシャは反乱を鎮圧、1525年に総督に赴任してエジプトの支配を安定させ、1526年1527年にアナトリア南部で親サファヴィー派の部族が起こした反乱も収拾させ、軍事・行政共に有能な手腕を示し、スレイマン1世の信任を深めていった。第一次ウィーン包囲(『ヒュネル・ナーメ』より)

1526年には、モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を討ち取りハンガリー中央部を平定し、ハプスブルク家オーストリア大公国と国境を接した。スレイマン1世はラヨシュの戦死により断絶したハンガリー王位に、オスマン帝国に服属したトランシルヴァニアの領主サポヤイ・ヤーノシュを推し、傀儡としてハンガリーの間接統治を狙った。しかし、ハンガリー王位継承を宣言したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝スペインカール5世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)と対立すると、1529年第一次ウィーン包囲を敢行し、ウィーン攻略には失敗するもののヨーロッパの奥深くにまで侵攻して西欧の人々に強い衝撃を与えた。

スレイマン1世は1532年にも再びオーストリア遠征を敢行したが、どちらも戦端を開こうとせず和睦の話し合いが行われ、1533年にフェルディナントの使者とイブラヒム・パシャとの協議の結果和睦が成立した(コンスタンティノープル条約)。内容はヤーノシュの王位を認め、オスマン帝国に貢納金を支払うことが確約されたため、ハンガリーに対するオスマン帝国の優位が明言され、スレイマン1世はしばらくヨーロッパ遠征は控える代わりに東方遠征へ向かった[3]
東方遠征

オスマン帝国にとって東のサファヴィー朝は油断ならない相手だった。何故ならば、アナトリア半島でオスマン帝国の支配に反発した土着勢力がサファヴィー朝と結びつく危険性が常に存在していたからである。しかし、アナトリア半島とイランの中間にあるクルディスタンで領主間の抗争が起こると、スレイマン1世はこれをきっかけに1533年に東征へ向かい、先遣隊を率いたイブラヒム・パシャはアゼルバイジャンを制圧した。スレイマン1世は翌1534年イラクへ出陣、バグダードを占領しイブラヒム・パシャと合流、1535年にアゼルバイジャンの首都タブリーズに到着したが、サファヴィー朝の軍勢を見かけることなくイスタンブールへ帰還した。

遠征でバグダードを占領して南イラクとアゼルバイジャンの大半を支配下に置き、東方の国境を安定させたスレイマン1世だったが、1548年の2回目の遠征と、1553年から1554年にかけて行われた3回目の遠征はタフマースブ1世率いるサファヴィー朝が騎兵を中心とする軍の機動力とゲリラ・焦土作戦で抵抗したため、オスマン帝国も成果を上げられず、最終的に1555年アマスィヤの講和で和睦して国境線を取り決め、イラク領有は確定したが(アゼルバイジャンはサファヴィー朝が奪回)、サファヴィー朝の完全征服はできなかった。

なお、最初の遠征終了後の1536年にこの遠征の責任者だったイブラヒム・パシャは処刑されたが、決着を着けられなかったことが一因とも、増長したためスレイマン1世の不興を買ったとも、宮廷闘争に敗れたためともいわれているが、いずれも伝聞に過ぎず真相は不明。また、1536年を境にスレイマン1世の大規模な領土拡張政策は終わりを告げ、以後は周辺国との交戦と重要拠点の確保、制海権や内政重視に目を向けていった[4]
制海権の確保

海軍の育成にも力を注ぎ、1533年にアルジェを本拠地とするバルバリア海賊バルバロス・ハイレッディンが帰順すると彼を海軍提督=パシャとした。彼の帰順によりアルジェリアもオスマン帝国領となり、西地中海に足がかりを得ると共に、海軍力も大幅に増強された。彼の率いるオスマン帝国海軍1538年プレヴェザの海戦スペインヴェネツィアローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。同年にモルドバへ遠征し従属国クリミア・ハン国との通路を確保、黒海も事実上支配下に収めた。ピーリー・レイースが海軍で名を挙げるのもスレイマン1世の時代である。

また、1540年にサポヤイ・ヤーノシュが亡くなると、フェルディナントが和睦を破りブダを占拠したため、1541年に再びハンガリーへ遠征して平定、トランシルヴァニアも属国とした上でハンガリーを分割することに決め、フェルディナントは北と西の領土(王領ハンガリー)、ヤーノシュの遺児ヤーノシュ・ジグモンドはハンガリー東部(東ハンガリー王国)、オスマン帝国は中央と南(オスマン帝国領ハンガリー)を領有した。以後も小競り合いは続いたが、1547年に和睦しフェルディナントがオスマン帝国に貢納金を支払い、それぞれの領地は認められた。

ハプスブルク家に対抗するため1535年フランス国王フランソワ1世と同盟を結び、1543年には、オスマン艦隊とフランス艦隊が共同でニースを攻略した。さらに、ハプスブルク家と対立していたドイツのルター派をフランソワ1世を通じて間接的に援助したとも言われ、フランソワ1世とその後継者アンリ2世がルター派諸侯に送った資金の大部分はオスマン帝国から供出されていたようである。後にスレイマン1世は、ハプスブルク家の支配下であったネーデルラントのルター派に対しても援助を申し出た。

この他、紅海インド洋に進出しているポルトガルとも対立、1538年に遠くインド北西部のグジャラート・スルターン朝(ポルトガルと対立していた)からの救援要請に応えインド洋に艦隊を派遣したり、アラビア半島に進出してイエメンアデンを獲得、対岸も占領してポルトガルを牽制しようと図ったり、1552年ペルシア湾の港を奪い取りポルトガルを妨害しようとしたが、いずれも海上政策では上手であるポルトガルの前に失敗している。ただしイエメンは確保、ポルトガルとオスマン帝国は後に互いの海域を設定して住み分けている[5]
晩年

一方で、長きに渡った治世の後半には政争が相次ぎ、16世紀末から激化する帝国の混乱の始まりが見られた。

特にスレイマン1世は他の后妾を差し置いて、後宮の女奴隷であったヒュッレム・スルタンを寵愛し、極めて異例なことに、1534年に彼女を奴隷の身分から解放して皇后(英語版、トルコ語版)として迎えるとともに、ヒュッレムのライバルと目されていたマヒデヴラン・スルタンを後宮から追い出した。このことから、ヒュッレムの子と異腹の子たち、更にヒュッレムの子同士の間でスレイマン1世の後継者を巡る激しい争いが行われ、後宮の女性が政治に容喙する端緒を作ったと言われる。また、ヒュッレムと娘のミフリマー・スルタン(英語版)及びその夫で大宰相リュステム・パシャはスレイマン1世の傍近くで讒言を繰り返したとして世間から非難されている。

1543年に次男メフメトが病死、1553年にイラン遠征の最中に長男ムスタファを謀反の罪で処刑、同年に末子ジハンギルも病死、1558年の最愛の妻ヒュッレムの死後、1559年に反乱を起こした皇子バヤズィトを1561年に処刑するなど家庭的に暗い晩年を送ったスレイマン1世は、1565年マルタ島への遠征軍を派遣したが失敗(マルタ包囲戦)した。

最晩年にあたる1566年には、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世が和睦を破りハンガリーを攻撃した。オスマン帝国は既にこの時点で劣勢であり、すぐにでも反撃しなければいけなかったが、スレイマンは持病の為、出陣できず、指揮は大宰相ソコルルが執ると思われていた。イラン・サファヴィー朝のタフマースブ1世は、「スレイマンは老いた。」と評し、イスタンブールの市民達も既に老齢で限界を迎えつつあったスルタンの死をただ待つだけであった。しかしスレイマンは出陣を決定し、馬に乗ってトプカプ宮殿の正門から現れた。イスタンブールの人々はこれを見て「若き日の壮麗帝が再び現れた」と大変驚いた。スレイマンは大軍を率いて報復のためハンガリー遠征を敢行した。しかし限界を迎えつつあったスレイマンは行軍中に馬ではなく馬車に乗り換え、7月にスィゲトヴァールを包囲したが、スレイマンは各部隊からの報告を聞くだけであり、実質的な軍の指揮は大宰相ソコルル・パシャが行った。そしてスレイマンは(スィゲトヴァール包囲戦)の真っ最中である9月7日に陣没した。(享年72歳。)

スレイマンの死後、軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャが代行してスィゲトヴァールを陥落させた後、スレイマン1世の遺骸を運び撤退した。


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