スリランカ
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1人あたり3851.666[2]ドル

GDP(PPP
合計(2019年)2969億9500万円[2]ドル(61位
1人あたり1万3621.75[2]ドル

独立
 - 日付イギリスより
1948年2月4日
通貨スリランカ・ルピーLKR
時間帯UTC(+5:30) (DST:なし)
ISO 3166-1LK / LKA
ccTLD.lk
国際電話番号94
^ 憲法上、「連結語」(link language) として英語が指定されている。
^ 旧首都はコロンボ

スリランカ民主社会主義共和国(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称スリランカは、南アジアインド亜大陸の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家。旧国称はセイロンで、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。最大都市はコロンボで、首都はコロンボ郊外に位置するスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。人口は約2,167万人(2018年)である[3]

1948年2月4日にイギリスから自治領英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。

国語はシンハラ語タミル語で、国民の3/4がシンハラ人で構成される。また、国民の7割が仏教徒上座部仏教)である。国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボール[4]
国名

正式名称はシンハラ語で ????? ???? ???????????????? ???????? ????? (Sri Lank? Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya)、タミル語で ?????? ?????? ???????? ???????? (Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu)。

公式の英語表記は Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。通称 Sri Lanka。

日本語の表記はスリランカ民主社会主義共和国。通称はスリランカ。漢語表記では、かつての国名「セイロン」を錫蘭とも書き、略語は「錫」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名を『シンハ・ドヴィーパ(ライオン=獅子の島)』といったことから、「獅子国」とも記されている。『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ(羅刹)の王のラーヴァナが住まいするランカー島は、現在のスリランカを意味するという説が有力とされてきたが、定説ではない。

シンハラ語で、スリ (?????, Sri) は「聖なる」という意味の接頭辞であり「光り輝く」「高貴な」といった意味合いを含む。ランカ (????) は古くからこの島を示す固有名詞であり、正確な語源は判明していない。一説には「美しいこと」を意味する単語アランカーワと同根とも言われる。
歴史詳細は「スリランカの歴史」を参照

紀元前5世紀: 紀元前483年シンハラ人の祖とされるヴィジャヤ王子がスリランカに上陸し、アヌラーダプラ王国を作ったとされる。王都はアヌラーダプラに置かれた。

紀元前3世紀: アショーカ王の王子マヒンダ仏教を伝えたとされ、これ以後、上座部仏教(テーラワーダ仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。

紀元前2世紀以降: 南インドからタミル人を主体とする断続的な移住者があり、現在のスリランカ・タミル人の原型を形成したと考えられる。

5世紀: 409年、中国、東晋の僧である法顕が来島、2年ほど過ごし『仏国記』に記録を残す。477年アヌラーダプラで父を殺した王子がシーギリアロックの岩山の頂に宮殿を築いて遷都してカッサパ1世となるも、数十年で王都を元に戻す。

11世紀: 1017年、南インドのチョーラ朝の侵入により王都を放棄した。

11世紀: 王国はアヌラーダプラの南東90キロのポロンナルワに移動し、1070年にチョーラ朝の勢力は撃退され、繁栄の時代を迎えた。ポロンナルワが王都となる(1070年 - 1255年、1287年 - 1293年)。

13世紀: 南インドでの動乱に伴い、チョーラ朝のタミル人の侵入が激しくなった。王都は北部から中部・南部に移動し、ダンバデニヤやヤーパフワを経て、コーッテでやや安定する。マルコ・ポーロが来島し、『東方見聞録』に記録を残す。

14世紀: イブン・バットゥータが来島し、『三大陸周遊記』に記録を残す。

15世紀: 鄭和が1410年に来島し、形式上では朝貢国となった。中央部にキャンディ王国(1469年 - 1815年)が成立し、キャンディを王都とした。低地にはコーッテ王国(1371年 - 1597年)、北部にはジャフナ王国(14世紀 - 1620年)があった。

16世紀: 1505年ポルトガル人コロンボに商館を建設し植民地化(ポルトガル領セイロン、1505年 - 1658年)[5]。植民都市ゴールも建設される。

17世紀: 1658年にオランダ人が来航。ポルトガルに代わりオランダが植民地化(オランダ領セイロン、1658年 - 1796年)。

18世紀: イギリスの東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を始める(イギリス領セイロン、1796年 - 1948年)。

1802年: イギリス本国の直轄植民地 (crown land) になり、アミアン講和条約でイギリスの領有が確定する[5]

1815年: イギリス軍はキャンディに入り、王権は消滅した。ウィーン会議でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。

1832年: コールブルックの改革( - 1833年)で、全土が均一に支配されるようになった。

1891年: ダルマパーラが仏教の復興を目指す大菩提会を創立。

1931年: ドナモア憲法(英語版)が制定され、アジア初の普通選挙法が施行された。

1942年: セイロン沖海戦が勃発。イギリス海軍東洋艦隊の拠点であったコロンボ、トリンコマリーが、大日本帝国海軍により空爆される。


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