スモレンスク戦争
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烈しい戦闘の中で、共和国軍はだんだんとロシア軍の陣地を荒廃させ、包囲は9月下旬には最終段階を迎えた。1633年9月28日、共和国軍はロシア軍の主要な補給物資の管理地点を奪い取り、10月4日までに包囲は崩れた。

シェインの軍隊は主要な野営地に撤退したが、逆効果となって野営地は10月中旬に共和国軍によって包囲された。ロシア軍は援軍の到着を待ったが誰も彼らを助けには来ず、共和国軍とコサック軍の騎兵がロシア軍を後方から攻めて総崩れにするために送り込まれた。一部の歴史家はロシア軍のキャンプ内で意見の食い違いと内部対立が生じていたため、有効な応戦を展開できなかったと指摘している(ヤシェニツァはロシアの軍司令官と傭兵隊長パーカーの対立だとしている)。さらにロシアではこの時期、クリミア・タタールが南部国境地域に攻め込み、同地域から来ていた多くの兵士とボヤーレが故郷を防衛すべくロシア軍のキャンプから脱走した。また一部の傭兵も脱走して共和国軍に加わった。

シェインは1634年1月に降伏のための交渉を始め、2月までに交渉は完了した。1634年2月25日にロシア側は降伏文書にサインし、3月1日にキャンプを撤収した(一部の研究者はシェインの文書調印の日が3月1日だったとする)。降伏文書によれば、ロシア軍は大砲の大半を残して撤退するよう取り決められたが、国王ヴワディスワフ4世の戦勝式典のあとで軍旗を持ち帰ることを許された。また彼らは今後3か月のあいだ共和国軍と交戦しないことも約束させられた。文書調印の時点ではシェインの軍隊はおよそ1万2000人いたが、うち4000人(大半が外国人だった)が離反して共和国に従った。
その他の戦い

スモレンスク県の他のいくつかの都市も小規模な戦闘の舞台となった。ロシア軍は優勢に立っていた1632年にいくつかの重要な地点を占領したものの、主力軍と大砲のスモレンスクへの到着が遅れてしまい、結果として彼らは包囲とその後の戦闘を勝ち抜くのに必要な余力を失ってしまったと考えられている。1633年7月、ロシア軍はポラツク、ヴィエリシュ、ウシヴャト、オジェジシュチェの町を占拠した。ポラツクは特に都市と要塞の一部を奪ったロシア軍にとって激しい戦闘の舞台になった。しかしヴィチェプスクとムシチスラウへの共和国軍の攻撃には首尾よく撃退することが出来た。ポーランド軍はプティヴリを包囲したが、同盟者であるコサックの離脱によって失敗に終わった。

1633年秋、共和国軍は前年にロシア軍が占領してから物資補給ポイントとして重視していたドロゴブージを奪回した。この奪回事件は、この都市からシェインの軍隊に補給を行うというロシア側の計画を頓挫させたが、そもそも、ロシアは1634年1月までに補給計画遂行のために必要な強兵5000人を集めることが出来なかった。また同年の秋には、王冠領大ヘトマンスタニスワフ・コニェツポルスキが共和国の南部国境でオスマン帝国の侵略軍を破り(ポーランド・オスマン戦争)、ロシアの都市セフスクを包囲していた。コニェツポルスキはこの町の要塞を落とせなかったが、この地域のロシア側の部隊を縛りつけ、北方のスモレンスクにいるロシア軍と合流するのを妨げた。

スモレンスクを1634年春に解放すると、共和国軍はベールイ(ビャワ)に向かい、3月下旬までに同市の郊外に到着した。ベールイ占領の試みは失敗に終わったが、共和国軍はヴャジマを奪うことが出来た。
ポリャノフカ条約「スモレンスク要塞の解放後にスモレンスク郊外に立つ、馬上のヴワディスワフ4世」ヤン・マテイコ画、第2次世界大戦期に消失

1634年の春までに、ロシアはシェインの率いる軍隊が敗北しただけでなく、タタールに南部国境から攻め込まれることになった。フィラレート総主教は前年に没しており、彼の死によって戦争への熱意は薄れた。1633年の年末には、ツァーリミハイルは紛争をどのように終わらせるかを考えるようになっていた。ヴワディスワフ4世は、かつてロシアのツァーリに選出されたことがあり、現在もツァーリ位への要求を続けていたため、戦争継続を望んでいた。一方で、ポーランド・スウェーデン間のアルトマルクの和議が失効する寸前であり、ロシア人と同盟してスウェーデンに攻め込むという考えも出された。しかし、最高権力機関であるセイムはこれ以上の紛争を望まなかった。プウォツク司教スタニスワフ・ウベンスキは、シェインの降伏の2週間後に記している、「私達の望みはこれまでの国境を維持すること、健康と福利を保障することである。両国は戦争の継続を望まなかったために交渉を始め、休戦協定ではなく「恒久和平」を結ぼうと考えた。

1634年4月30日に和議が開かれ、5月にはポリャノフカ条約が調印されて戦争は終結した。条約は領土の現状維持を確定し、ロシアが巨額の戦争賠償(2万金ルーブル)を支払い、その代わりにヴワディスワフはツァーリ称号を放棄してロシアのレガリア(王権の象徴)をモスクワに返還した。ロシアにとっては、係争中だった国境地帯に対する要求を取り下げることよりも、ヴワディスワフのツァーリ位への権利放棄の方がはるかに重要な問題だったと考えられる。ミハイルの正統性が完全に認められ、国内の安定に大きく寄与したからである。軍事的には敗北したものの、ロシアは外交上の勝利を得た。
結果

交戦した両国はどちらも西欧をモデルにした戦術、部隊編制、装備を導入したが、こうした面での革新度はロシアよりポーランド・リトアニアの方が進んでいた。しかし、ロシアの主な敗因はスモレンスクに大砲を持ち込むのが遅れたこと、ポーランドの騎兵隊によって物資補給ルートが断たれてしまったことであった。それでも、スケープゴートが必要とされた。ミハイル・シェインは副司令官のアルテミー・イズマイロフとその息子ヴァシーリーと共に反逆罪で告発され、1634年4月28日にモスクワで処刑された。

戦後、ヴワディスワフはロシアに国境付近の町セルペイスクを譲渡して、ツァーリに反スウェーデン軍事同盟に加わるよう要請した。しかしシュトゥムスカ・ヴィエシの和議の締結後、セイムはスウェーデンとの交戦を嫌い、国王の戦争計画に反対してこれを廃棄に追い込んだ。この同盟に何の利益も見出せないロシアは同盟締結に消極的で、ポーランドに同盟を提案することはなかった。

1634年、共和国はトルコ軍に最終的な勝利を収め、ポーランド・オスマン戦争を終わらせた。この戦勝はポリャノフカ条約とともに、17世紀初頭からほぼ絶え間なく続いてきた近隣諸国との戦争に終止符をうった。
関連項目

三十年戦争

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)

外部リンク

(英語) Rickard, J (26 July 2007), ⇒
Smolensk War, 1632?1634

(ロシア語) Волков В.А. Смоленская война (1632?1634 гг.)

典拠管理データベース: 国立図書館

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