このような初期の例はあるが、スペースオペラが『アメージング・ストーリーズ』誌などのパルプ・マガジンに定期的に掲載されるようになるのは1920年代末のことである[1][4]。世界初のスペースオペラ映画は、デンマークの Himmelskibet (1918) である[8]。初期の宇宙冒険活劇は異星人による地球侵略や天才発明家による宇宙船の発明といった話が多いが、純粋なスペースオペラでは宇宙旅行が当然なこととして描かれ(そのため、遠い未来の話という設定である)、準備などを省略し、まっすぐに宇宙空間に行って大暴れする。その種の初期の小説としては、J. Schlossel の Invaders from Outside(ウィアード・テイルズ1925年1月号)[9]、レイ・カミングスの Tarrano the Conqueror (1925)、エドモンド・ハミルトンの Across Space (1926) と「衝突する太陽」(ウィアード・テイルズ1928年8/9月号)、J. Schlossel の The Second Swarm(アメージング・ストーリーズ1928年秋号)と The Star Stealers(ウィアード・テイルズ1929年2月号)などがある[4]。他の作家が1929年から1930年にかけて類似の小説を書いている。
しばしば真の「スペースオペラの父」とされる作家はE・E・スミスである。処女作『宇宙のスカイラーク』(『アメージング・ストーリーズ』1928年8-10月号)は、最初の偉大なスペースオペラといわれることが多い[4]。星間航法を発明した科学者の物語と、エドガー・ライス・バローズ風の惑星冒険ものあるいはサイエンス・ファンタジーとをまとめたような話である[1]。スミスの後の『レンズマン』シリーズ、エドモンド・ハミルトンの『キャプテン・フューチャー』シリーズ、またジョン・W・キャンベルやジャック・ウィリアムスンらの1930年代から1940年代にかけての作品は人気を呼び、他の作家もそれらを模倣した。1940年代初めには似たような作品や無節操な作品が氾濫し、一部のファンが本来の軽蔑的な意味の「スペースオペラ」という呼称を生み出すことにつながった。
しかし、スペースオペラの中でも最良とされる例は高く評価されており、サブジャンルとしての再評価と復活につながっていく。ポール・アンダースンやゴードン・R・ディクスンといった作家は1950年代を通して壮大なスケールの宇宙冒険活劇を書き続け、1970年代にはM・ジョン・ハリスンやC・J・チェリイといった作家が続いた。そのころには「スペースオペラ」という言葉は多くの読者にとって蔑称ではなく、単にSF冒険物語の一種を指す用語となっていた[1]。
また、スーパーヒーローによる冒険活劇主体のヒーローパルプやアメリカン・コミックス(いわゆるアメコミ)にも、『グリーンランタン』(1940年 -- )を筆頭とするスペースオペラの影響を受けた宇宙や未来世界を舞台にした作品が登場するようになり、一部はハミルトンら本職のスペースオペラ作家がシナリオを執筆している(キャプテン・フューチャーはSFではなくヒーローパルプだと解釈されることもある)。スペースオペラ風のアメコミは他のアメコミ作品とクロスオーバーしながらストーリーを展開し続け、やがて本来のスペースオペラ以上の、そしてアメリカSF全般以上の人気を博するようになった。 1970年代に登場したアメリカの作家ラリー・ニーヴンの『ノウンスペース』シリーズは、質的な向上やハードSFとの融合を計り「ニュー・スペースオペラ」あるいは「モダン・スペースオペラ」と呼ばれた。作家ポール・J・マコーリイによれば、主にイギリスの一部の作家が1970年代にスペースオペラを再活性化させはじめたという[10]。ただし、イギリス以外の評論家はニュー・スペースオペラをイギリスが主導したという主張には異論を唱える傾向がある[1]。この流れでの大きな出来事としては、M・ジョン・ハリスンの The Centauri Device (1975) の出版、デイヴィッド・プリングル
ニュー・スペースオペラ