スペツナズ
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1981年10月にこの支隊はアフガニスタンに投入された。第154及び第177支隊は1984年まで、主としてパイプラインと山岳路の警備に従事した。

1984年、反乱軍のキャラバン対策のため、第154独立特殊任務支隊はジェララバードに、第177支隊はガズニに転移し、1984年2月10日、第173支隊はクシュク市地区で国境を越え、1984年2月14日カンダハル市周辺に到着した。これと関連して、1984年秋、4番目の支隊がバグラムに到着した。数ヵ月後、支隊はバラキ市に転移した。

1985年春、5番目、6番目、7番目の支隊がアフガニスタンに投入された。また、第15及び第22旅団本部もアフガニスタンに投入された。1985年末、第22旅団の編成下に入る8番目の支隊がアフガニスタンで直接編成され、ファラフルドに配置された。このようにして、アフガン戦争中、8個支隊、2個旅団本部が活動した。なお、秘密保全のため、全スペツナズ支隊は、独立自動車化狙撃大隊と呼ばれていた。

ジャラーラーバード:第154特殊任務支隊、第15旅団本部

カンダハール:第173特殊任務支隊

ガズニー:第177特殊任務支隊

バラキ:4番目の支隊

アサドバード:5番目の支隊

ラシュカルガフ:6番目の支隊、第22旅団本部

シャフジョエ:7番目の支隊

ファラフルド:8番目の支隊

第22独立特殊任務旅団は、1988年8月にアフガニスタンから撤収した。第15旅団の最後の部隊は、第40軍の縦隊を後衛で援護しつつ、1989年2月15日にアフガニスタンから撤収した。
ソ連崩壊スペツナズ グルジア(ジョージア)

ソ連末期からその崩壊にかけてスペツナズは、大規模騒擾、分離主義集団の鎮圧のためにソ連各地に投入されることとなった。1980年代末から1990年代初めにかけ、第173支隊はオセチア・イングーシ紛争時に北オセチア共和国バクーならびにナゴルノ・カラバフ自治州に投入された。1992年、第22独立特殊任務旅団は北カフカーズ軍管区に移管された。

1992年、モスクワ軍管区の旅団の2個支隊は秩序維持のためタジキスタン共和国に派遣された。1988年から1989年にかけ、ザカフカーズ軍管区の第12特殊任務旅団の3個支隊は、アゼルバイジャンのザカタリ地区及びトビリシ市における秩序維持に参加し、1991年、ナゴルノ・カラバフ州及び北オセチアに投入された。1991年、ドイツに駐屯していたスペツナズ旅団が撤収し、沿ヴォルガ軍管区に移管された。

ソ連崩壊後のソ連軍の分割の結果、CIS諸国には、以下の部隊が移管された。

ウクライナ

第10独立特殊任務旅団(ロシア語版)(オデッサ軍管区、クリミア):現ウクライナ特殊作戦軍第3独立特殊任務連隊(ウクライナ語版、ロシア語版)

第9独立特殊任務旅団(ロシア語版)(キエフ軍管区、キロヴォグラード):1992年に第50特殊訓練分遣隊(ウクライナ語版)として再編されるも、2013年に解隊。

第8独立特殊任務旅団(ロシア語版)(沿カルパチア軍管区、イジャスラヴリ):現ウクライナ特殊作戦軍第8独立特殊任務連隊(ウクライナ語版、ロシア語版)


ベラルーシ

第5独立特殊任務旅団(ベラルーシ語版、ロシア語版、英語版)

1992年10月1日、ヴィリニュス市に駐屯していた第4独立特殊任務旅団が解散された。ペチョーラの特殊任務教育連隊も解散された。1992年7月25日、第901独立空中襲撃旅団と第218独立特殊任務大隊に基づき、空挺軍第45独立特殊任務連隊が編成された。
チェチェン戦争
第1次チェチェン戦争

スペツナズは、1994から1996年までの第1次チェチェン戦争に当初から参加した。モスクワ、シベリア、北カフカーズ、ウラル、ザバイカル及び極東軍管区の旅団から支隊が派遣され、1994年12月と1995年1月には空挺軍第45独立連隊も参加した。

1995年春までに、スペツナズは、北カフカーズ軍管区の独立特殊任務支隊を除き、チェチェンから撤収した。同支隊は、戦闘行動終結まで戦闘し、1996年秋に原隊に復帰した。

戦争初期、一般部隊の練度が低かったため、スペツナズは、通常の偵察・強襲部隊として使用され、多大な損害を出した。特に1995年1月初め、上層部の誤算により、A.イワノフ少佐指揮下の特殊任務支隊がチェチェン側に降伏する事態まで発生した。

1995年5月、北カフカーズ軍管区の旅団のスペツナズ支隊は、ブデノフスクの人質解放作戦に参加した。彼らは病院に突入したが、市郊外を支配できず、事後、戦闘員及び人質を乗せた縦隊に随伴した。

1996年1月、北カフカーズ軍管区の旅団の支隊の1つは、ペルヴォマイスキーの人質解放作戦に参加した。作戦初期において、47人から成る支隊はチェチェン兵の主力を引き付けるために牽制行動を実行した。最終段階において、支隊は数倍もの敵の数的優勢にも拘らず、浸透したS.ラドゥーエフ集団に大損害を与えた。この戦闘に対して、5人のスペツナズ将校にはロシア連邦英雄の称号が授与された。
第2次チェチェン戦争

1996年のハサヴユルト協定署名は、チェチェンでの戦争終結を意味しなかった。1997年末までに、バーブ教徒が北カフカーズに独立イスラム国家建国を試みており、ダゲスタンがその第1の標的になっていることが明らかになった。

このことと関連して、1998年初め、第22独立特殊任務旅団の編成下から、カスピースク市に第8独立特殊任務支隊が分派された。数ヵ月後、第3独立特殊任務支隊がそれと交替した。これら支隊は、1999年8月まで相互に交替した。支隊は、チェチェンの隣接地区で現地偵察を行い、行政境界の警備及び通報システムを構築した。また、チェチェンから大量に流入する「闇」石油製品の移動及び販売ルートが追跡された。内務省及びFSBと共同で、武器取引ルートが摘発された。

戦闘行動の開始と共にスペツナズは敵の防御施設及び陣地を解明しつつ、偵察により一般部隊を保障した。この任務は、第8独立特殊任務支隊、並びに第3独立特殊任務支隊が遂行した。事後、スペツナズは事実上、全軍管区からの支隊により増強された。

ダゲスタンの抵抗拠点の撃破終結後、部隊はチェチェン共和国内に投入された。事後、スペツナズは捜索・待伏行動及び発見された敵基地に対する襲撃の実行に移行した。また、スペツナズはロシア軍中で最も規律のある部隊であったため、友軍の掠奪兵士対策にも検察機関と共同で参加することとなった。
2022年ロシアのウクライナ侵攻

東京スポーツは3月12日、元・公安警察北芝健のコメントをソースとして「2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるアントノフ国際空港の戦い空挺部隊としてスペツナズ200人が投入されたが、秘密裏に待機していたアメリカの民間傭兵部隊アカデミ』に阻まれ2月24日に全滅した」との記事を掲載した[4]


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