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他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州カンタブリア州ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動:Reconquista))を始めることになる[7]

イスラームの支配下ではキリスト教徒ユダヤ教徒啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[9]後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータモスク)の内部

シリアダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリム中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀ごろのアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[10][11]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人グアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになった[11]

11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国カスティーリャ王国アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[11]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝ムワッヒド朝が統一を取り戻して北部へ侵攻したものの、キリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[7]
イスラーム支配の終焉と統一詳細は「レコンキスタ」を参照マンサナーレス・エル・レアル(英語版)の城

レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨ722年コバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行し、数百年続いた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川ドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらく後にフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[7]1212年のナバス・デ・トロサの戦い

アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年トレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝ムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年コルドバが、1248年セビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[12]カトリック両王フェルナンド2世イサベル1世


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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