ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年ごろ、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年ごろ、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年ごろに最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)属州を確保し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配詳細は「アンダルス」を参照ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動:Reconquista))を始めることになる[7]。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[9]。後ウマイヤ朝の首都コルドバに建設されたメスキータ(モスク)の内部
シリアのダマスカスにその中心があったウマイヤ朝はアッバース革命により750年に滅ぼされたが、アッバース朝の捕縛を逃れたウマイヤ朝の王族アブド・アッラフマーン1世はアンダルスに辿り着き、756年に後ウマイヤ朝を建国した。後ウマイヤ朝のカリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大の都市であり、最も豊かかつ文化的に洗練されていた。後ウマイヤ朝下では地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。更に、新たな農業技術や農産物の導入により、農業生産が著しく拡大した。後ウマイヤ朝の下で、既にキリスト教化していた住民のイスラームへの改宗が進み、10世紀ごろのアンダルスではムワッラド(イベリア半島出身の改宗ムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている[10][11]。イベリア半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、度々北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになった[11]。
11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[11]。