11世紀に入ると1031年に後ウマイヤ朝は滅亡し、イスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂した。イスラーム勢力の分裂は、それまで小規模だったナバラ王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった[11]。キリスト教勢力の伸張に対し、北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻して北部へ侵攻したものの、キリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった[7]。
イスラーム支配の終焉と統一詳細は「レコンキスタ」を参照マンサナーレス・エル・レアル(英語版)の城
レコンキスタはアストゥリアス王国のペラーヨが722年のコバドンガの戦いに勝利したことに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行し、数百年続いた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらく後にフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク地方、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる[7]。1212年のナバス・デ・トロサの戦い
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、ナスル朝グラナダ王国がカスティーリャ王国の朝貢国として残るのみとなった[12]。カトリック両王(フェルナンド2世とイサベル1世)
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた[13]。このころにヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した[14]。
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[15]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[16]。その後同じ条件でムスリムも追放された[7]。「グラナダ王国」、「フェズ王国」、および「シナン・レイース」も参照