立憲革命挫折後の19世紀スペインは、王統の正統性を巡って三次に亘るカルリスタ戦争が勃発するなどの政治的不安定と、イギリスやベルギー、ドイツ帝国、アメリカ合衆国で進行する産業革命に乗り遅れるなどの経済的危機にあった。1873年にはスペイン史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、翌1874年には王政復古した。また、19世紀後半には植民地として残っていたフィリピンとキューバで独立運動が発生し、1898年にキューバのハバナでアメリカ海軍のメイン号が爆沈したことをきっかけに、これらの植民地の独立戦争にアメリカ合衆国が介入した。この米西戦争に於いて、スペイン軍の幾つかの部隊は善戦したものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は "El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られており、敗戦の衝撃から「98年の世代(英語版)」と呼ばれる知識人の一群が生まれた。
スペイン内戦終結まで国王アルフォンソ13世とミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍(1930年)スペイン内戦に参戦した国際旅団のポーランド人義勇兵
スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(モロッコ)、スペイン領ギニア(英語版)(赤道ギニア)を獲得しただけだった。スペインは1914年に勃発した第一次世界大戦を中立で乗り切り、アメリカ合衆国発のインフルエンザのパンデミックが中立国スペインからの情報を経て世界に伝わったため、「スペインかぜ」と呼ばれた。第一次世界大戦後、1920年にスペイン領モロッコで始まった第3次リーフ戦争では大損害を出し、フランス軍の援軍を得て1926年に鎮圧したものの、国王の権威は更に低下した。内政ではミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(英語版)(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1930年)を経て、1930年にプリモ・デ・リベーラ将軍が死去すると、スペイン国民の軍政と軍政を支えた国王への不満の高揚により、翌1931年にアルフォンソ13世が国外脱出し、君主制は崩壊した。君主制崩壊によりスペイン1931年憲法(英語版)が制定され、スペイン第二共和政が成立した。第二共和国はバスク、カタルーニャそしてガリシアに自治権を与え、また女性参政権も認められた。
しかしながら、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続けた。1936年の選挙にて左翼共和党(英語版) (IR)、社会労働党 (PSOE)、共産党 (PCE) ら左派連合のマヌエル・アサーニャスペイン人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こし、スペイン内戦が勃発した。3年に及ぶ内戦はソビエト連邦の支援を受けた共和国政府を、ナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍(英語版)が打倒することで終結した。第二次世界大戦の前哨戦となったこの内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り、50万人が死亡[23]、50万人が国を捨てて亡命し[24]、社会基盤は破壊し、国力は疲弊しきってしまっていた。
フランコ独裁体制詳細は「フランコ体制下のスペイン」、「第二次世界大戦下のスペイン」、および「フランキスモ」を参照フランシスコ・フランコ総統。1939年から1975年までスペインの最高指導者として君臨した。
1939年4月1日から1975年11月22日まで、すなわちスペイン内戦終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁時代であった。フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党制となり、ファランヘ党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。
第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸国寄りであり、独ソ戦ではソ連と戦う義勇兵「青師団」をナチス・ドイツ側に派遣したが、正式な参戦はせずに中立を守った。
第二次世界大戦終結後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。しかし、東西冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり、スペインの国際的孤立は緩和した。また、フランコは1957年にモロッコとの間で勃発したイフニ戦争(Ifni War)などの衝突を経た後、国際的な脱植民地化の潮流に合わせて徐々にそれまで保持していた植民地を解放し、1968年10月12日には赤道ギニアの独立を認めた。フランコ主義下のスペイン・ナショナリズムの高揚は、カタルーニャやバスクの言語や文化への弾圧を伴っており、フランコ体制の弾圧に対抗して1959年に結成されたバスク祖国と自由(ETA)はバスク民族主義の立場からテロリズムを繰り広げ、1973年にフランコの後継者だと目されていたルイス・カレーロ・ブランコ首相を暗殺した。