1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。
18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[7]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀のラテンアメリカ諸国独立や米西戦争まで維持した。フィリップ5世の家族》ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー作、1743年
この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[7]。
1713年、1714年のユトレヒト条約とラシュタット条約によるスペイン・ブルボン朝の成立後、18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。1759年に国王に即位した啓蒙専制君主カルロス3世治下でのフランスの制度の導入は、行政と経済の効率を上げ、スペインは中興を遂げた。またイギリス、フランス発の啓蒙思想がホベジャーノス(スペイン語版、英語版)や、フェイホー(スペイン語版、英語版)によって導入され、一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。18世紀後半には貿易が急速に成長し、1776年に勃発したアメリカ独立戦争ではアメリカ独立派に軍事援助を行い、国際的地位を向上させている[20]。
斜陽の帝国詳細は「メリノ種」、「スペイン独立戦争」、および「米西戦争」を参照スペイン独立戦争を描いたフランシスコ・デ・ゴヤ画『マドリード、1808年5月3日』
1789年にフランス革命が勃発すると、1793年にスペインは革命によって成立したフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて1796年にサン・イルデフォンソ条約を結び、講和した。その後スペインはイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、ナポレオン率いるフランス帝国と結んだスペインは、フランス海軍と共に1805年にイギリス海軍とトラファルガーの海戦を戦ったものの惨敗し、スペイン海軍は壊滅した。
19世紀初頭にはナポレオン戦争とその他の要因が重なって経済が崩壊状態になり、1808年3月にスペインの直接支配を目論んだフランスによってブルボン朝のフェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフがホセ1世としてスペイン国王に即位した。この外国の傀儡国王はスペイン人にとっては恥辱とみなされ、即座にマドリードで反乱が発生した。これが全土へ広がり、1808年からいわゆるスペイン独立戦争に突入する[21]。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した[22]。