スペイン帝国はその最盛期にはブラジルなどを除く南アメリカ大陸、中央アメリカの大半(メキシコなど)、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[18]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去してアヴィシュ王朝が断絶すると、スペイン王がポルトガル王を一時兼ねた。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。フェリペ2世
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。なお、1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移し、以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。
この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と地中海で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。さらに、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった[19]。16世紀のスペインのガレオン船
1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりブラガンサ朝ポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。
18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる[7]。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀のラテンアメリカ諸国独立や米西戦争まで維持した。フィリップ5世の家族》ルイ・ミシェル・ヴァン・ロー作、1743年
この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、二国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている[7]。