イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (Espana) が王国の総称として用いられるようになった[7]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。
スペイン帝国詳細は「スペイン帝国」および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照スペイン・ポルトガル同君連合(1580年?1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明など中南米の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[17]。
スペイン帝国はその最盛期にはブラジルなどを除く南アメリカ大陸、中央アメリカの大半(メキシコなど)、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[18]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去してアヴィシュ王朝が断絶すると、スペイン王がポルトガル王を一時兼ねた。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。フェリペ2世
このハプスブルク朝のカルロス1世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期であり、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。なお、1561年、フェリペ2世は宮廷をマドリードに移し、以後マドリードは今日に至るまでスペインの首都となっている。
この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムニダーデスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(英語版)(1568年)、オスマン帝国との衝突(英語版)(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争(1635年 - 1659年)が起こっている。