1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に亘ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約(英語版)ではムスリムの信仰が保障されている[15]。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた[16]。その後同じ条件でムスリムも追放された[7]。「グラナダ王国」、「フェズ王国」、および「シナン・レイース」も参照
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア (Hispania) を語源とするエスパーニャ (Espana) が王国の総称として用いられるようになった[7]。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。
スペイン帝国詳細は「スペイン帝国」および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照スペイン・ポルトガル同君連合(1580年?1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。カルロス1世は1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位し、ドイツで始まったプロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の擁護者となった。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明など中南米の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された[17]。
スペイン帝国はその最盛期にはブラジルなどを除く南アメリカ大陸、中央アメリカの大半(メキシコなど)、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シチリア島、北アフリカのいくつかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた[18]。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去してアヴィシュ王朝が断絶すると、スペイン王がポルトガル王を一時兼ねた。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。フェリペ2世