スペイン王国(スペインおうこく、西: Reino de Espana)、もしくはスペイン国(スペインこく、西: Estado espanol)、通称スペイン(西: Espana)は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。
西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。 1978年改正の憲法では、正式な国名は定められておらず[注釈 5]、スペイン語で、Espana([es?pa?a]
国名
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン王国、スペイン国。これは英語表記の「Spain」に基づく。中国語から漢字による表記は西班牙で、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近い「イスパニア(イスパニヤ)」という呼称が用いられていた。語源は古代ローマ人のイベリア半島の呼び名「ヒスパニア」である。
英語表記で国民はSpaniard(個人を指す場合。総体としてはSpanish)、形容詞はSpanish。
「Espana(エスパーニャ)」とは、フェニキア語で「ハイラックスの島」を意味する「i-shaphanim」に由来とされ、フェニキア人が同地に生息していたノウサギをそれと誤認したことから生まれたとされる説がある。その後古代ギリシア語で「?σπανια(Hispania)」、古ラテン語で「Hisp?nia」、俗ラテン語で「Spania」、アングロ=ノルマン語で「Espayne」と変化していった。
だが、文献学の専門家である歴史家のJesus Luis CunchillosとJose Angel Zamora Lopezは上記の説を否定している。
二人はフェニキア語で「冶金の島」を意味する「I-span-ya」が「Espana」の由来だとしており、現在はこの説が国名の由来として最も信憑性が高いとして扱われている[3][4]。
(アンダルシアの海岸またはタルテッソス王国にフェニキア人が到着した際に、激しい採鉱と冶金活動がされていたことに関係している)
「エスパーニャ」という名称は、長らく同地を指す俗称だった。カスティーリャ王国とアラゴン王国の1492年の統合以降でも国王はあくまで連合王国(「カトリック(またはスペイン)君主制国(モナルキア)」と称されることが多かった)の共通君主に過ぎず、宮廷や議会・政府は各構成国毎に置かれている諸侯連合だった。1624年に宰相オリバーレスは国王に「スペイン国王」となるよう提案したが実現しなかった。1707年発布の新組織王令により複合王政は廃止され、単一の中央集権国となった。しかしこの時もスペインは国号とはならず、1808年にナポレオン・ボナパルトの兄ホセ1世の即位した時に正式にスペイン国王が誕生した(スペインの国旗が登場したのは1785年)。
1978年憲法で、それまで明記されていた国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するために採られた措置であった。
なお、スペイン外務省は1984年に、「スペイン王国」と「スペイン」を国際条約においては同等と見なすとの法令を出した。現在は国際条約や国際組織の文書、国内の公式文書や外交文書において前者が公式国名として使用される事が多い[5]。
歴史詳細は「スペインの歴史」を参照
スペインの歴史
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先史時代(英語版)
古代
イベリア人
タルテッソス紀元前4世紀
第二次ポエニ戦争219-201 BC
第一次ケルティベリア戦争181-179 BC
ルシタニア戦争155-140 BC
ヌマンティア戦争153-133 BC