鉄器時代の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルティベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年ごろ)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年ごろにフェニキア人と古代ギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ帝国の支配に代わった[7]。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国詳細は「ヒスパニア」を参照メリダのローマ劇場
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとした。法と言語とローマ街道によって結びつけ、その支配はその後500年以上続くことになる[8]。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった[7]。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した[7]。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている[8]。
ローマの支配は409年にゲルマン系のスエビ族、ヴァンダル族、アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年ごろ、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ王国(ガリシア王国)を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年ごろ、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建国し、418年ごろに最終的にヒスパニア全域を支配した。552年には東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニア(英語版)属州を確保し、ローマ帝国再建の足がかりにしようとした。西ゴート王国治下の589年にトレド教会会議が開催され、国王レカレド1世がそれまで西ゴート族の主流宗旨だったアリウス派からカトリック教会に改宗し、以後イベリア半島のキリスト教の主流はカトリックとなった。
イスラームの支配詳細は「アンダルス」を参照ナスル朝の首都グラナダに建設されたアランブラ宮殿
711年に北アフリカからターリク・イブン=ズィヤード率いるイスラーム勢力のウマイヤ朝が侵入し、西ゴート王国はグアダレーテの戦い(英語版)で敗れて718年に滅亡した。この征服の結果イベリア半島の大部分がイスラーム治下に置かれ、イスラームに征服された半島はアラビア語でアル・アンダルスと呼ばれようになった。他方、キリスト教勢力はイベリア半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)に逃れてアストゥリアス王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動:Reconquista))を始めることになる[7]。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として一定の制限を受けた[9]。