スペイン内戦
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7月17日、エミリオ・モラ(スペイン語版)を首謀者として、モロッコメリリャで反乱が起こった。要注意人物としてカナリア諸島に左遷されていたフランコなどがこれに呼応し、フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置すると、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった[6]。反乱が起こると、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会地主資本家軍部外交官、グアルディア・シビル内の右派などの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。政権側に留まったのは共和制支持者や左翼政党、ブルーカラー労働者、バスクカタルーニャ自治を求める勢力などであった。

アサーニャは右派をなだめるためキローガ内閣を総辞職させ、7月18日、後任に穏健派である共和統一党のディエゴ・マルティネス・バリオ(スペイン語版)を擁立した。バリオはモラに陸軍大臣の座を用意して懐柔しようとしたが、モラは「貴兄と意見の一致をみたなどと(反乱軍民兵隊の)連中に言ったら、私が真っ先に血祭りにあげられてしまう。マドリードの貴兄も同じことが言えるんじゃないか。二人とも、もはやお互いの大衆を抑えることなどできないんだ」と拒否した。一方、人民戦線内の左派は、反乱軍と交渉したバリオを「裏切り者」と非難した。民衆は倒閣のデモを起こし、扇動家はバリオを血祭りに挙げるよう気勢を上げた。バリオ内閣はわずか2日で総辞職に追い込まれ、7月19日、徹底抗戦を掲げるホセ・ヒラル(スペイン語版)内閣(左翼共和党)が成立した。また、ヒラル内閣は労働者への武器供与要求を受け入れた。

ただし、どちらの勢力も一枚岩ではなく、軍部などでも主に地理的事情で人民戦線側に付いた者も少なくなかった。フランコ一族も、フランシスコ・フランコとその兄弟に対して従兄弟は人民戦線側に付いた。軍部は数の上では真っ二つに割れたが、主力は反乱軍側に付いたため、人民戦線側の軍事力は当初から劣勢であった。

7月24日、スペイン政府はフランスに特使を送り、支援を要請するも色よい返事はもらえなかった。同日、駐イギリス大使がイギリス政府に支援の働きかけを行うものの一蹴される結果となった[7]
内戦の展開1936年の8月から9月にかけての勢力圏

当初の反乱指導者はモラであったが、トレドを陥落させるなど反乱軍内部で声望を高めたフランコが9月29日に反乱軍の総司令官兼元首に選出され、翌10月1日には総統に就任。革命政府の政綱の中で欧州の文明を赤化の危機から救い出すために決起したことに言及、国民の福祉を目標に全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した[8]。フランコは、ファシズム政権を樹立していたドイツイタリアから支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。隣国のポルトガルに成立していたサラザールによる独裁政権もフランコを助け、日本も少量ながらフランコ軍に武器を援助した[注釈 1]アイルランドもエオイン・オデュフィ(英語版)率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。

ドイツからは、空軍の「コンドル軍団」と空軍の指揮下で行動する戦車部隊、数隻の艦艇、軍事顧問が派遣された。イタリアはフランコにとっては最大の援助国であり、4個師団からなるスペイン遠征軍 (CTV) と航空部隊、海軍部隊が派遣され、物資援助も含めると、援助額は当時の金額で14兆リラに達している。後に、フランコ政権に対して7兆リラの支払いが求められたが、踏み倒されている。ポルトガルは、最大で2万人規模の軍隊を派遣していた。 

当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスアメリカは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援をおこなったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリス、アメリカと同様に中立政策に転換した。

そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられなかった。ソ連の軍事援助は莫大だったが有償であり、メキシコからの軍事的な援助は全体からみればごくわずかであった。しかし、国際旅団に各国から義勇兵が駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。

また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。また、人民戦線政府にとっても、革命は英仏の心証を害しかねないため、やはり言及を避けた。
反乱軍の進撃

内戦の初期においては、人民戦線側はバスクカタルーニャバレンシアマドリードラ・マンチャアンダルシアなど国土の大半[注釈 2]を確保したのに対して、反乱軍側はガリシアとレオン[注釈 3]を確保していたに過ぎなかった。

反乱軍は当初は首都のマドリード(市街戦が行われた11月7日に政府機能をバレンシアへ移転[9]、11月13日にマドリードに帰還する[10]も後にバルセロナへ移転)を陥落させようと図るが、人民戦線側も国際旅団などによって部隊が増強されており、市民の協力で塹壕が掘られ、ソ連から支援武器が到着したこともあり、必死の抵抗をみせた。結局マドリードは、内戦の最後まで人民戦線側に掌握され続けた。このため、内戦は長期化の様相を見せはじめ、フランコ将軍はイベリア半島北部の港湾地域、工業地帯制圧へと戦略を切り替えた。空襲を受けた後のゲルニカ

反乱軍は、当初からフランコが全権を握っていたわけではなかったが、フランコがドイツ・イタリアの支援をとりつけていたこと、反乱軍側の指導者であったモラの事故死(1937年6月)などが重なって権力の集中が進み、ファランヘ党[注釈 4]と他政党を統合・改組させてその党首に就任、他政党の活動を禁止させてファシズム体制を固めた。

反乱軍の北部制圧は確実に進められ、1937年春には北部のバスク地方が他の人民戦線側地域から分断されて孤立し、ビルバオ(6月)、サンタンデール(8月)、ヒホン(10月)など主要都市が陥落して、アストゥリアスからバスクは完全に反乱軍に占領された。その間の4月26日にはバスク地方のゲルニカが、ドイツから送り込まれた義勇軍航空部隊コンドル軍団のJu52輸送機を改造した爆撃型を主体とした24機による空襲(ゲルニカ爆撃)を受けた。これは前線に通じる鉄道・道路など交通の要であった同市を破壊して共和国軍の補給を妨害することが目的で、巻き添えとなった市民に約300人の死傷者が出た[注釈 5]

さらに、1938年に入ると南部ではアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、中央部でもエブロ川南岸地域の制圧によって反乱軍はバレンシア地方北部で地中海沿岸にまで達した。これにより、共和国側の勢力はカタルーニャとマドリード、ラ・マンチャで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進んだ。
共和国軍の混迷

当初、ソ連から送られてきた戦闘機(I-15およびI-16系)と爆撃機 (SB) は、反乱軍はもちろん、独伊の空軍機をも性能面で圧倒しており、戦場の制空権は政府側のものだった。ソ連製の戦車、装甲車もまた、走攻守全てで反政府側の装甲戦闘車両を圧倒しており、マドリード攻防戦ではイタリア軍の戦車部隊を一方的に壊滅させている。しかしながら、共和国軍(反ファシズム)側の足並みがそろわないことや、軍隊運営の不効率などで、十分に優位を活かしきれなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。急進的労働組合であり労働者自治(アナルコサンディカリスム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNT・FAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働者党 (POUM) と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。「モスクワの金」も参照

当時スペイン銀行外貨準備用にを保有しており、その保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。


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