スペイン内戦(スペインないせん、スペイン語:Guerra Civil Espanola、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(英語版)(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民文化人・知識人らも数多く義勇兵(国際旅団)として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦した。 スペイン内戦は、スペイン第二共和国政府に対してスペイン陸軍の将軍グループがクーデターを起こしたことにより始まったスペイン国内の抗争だった。内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立した。フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指した。 内戦中、政府側の共和国派(レプブリカーノス)の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、コミンテルンが各国共産党を使って、西欧諸国の個人から多くの義勇兵(その大半は共産党員)[1]を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派(ナシオナーレス)の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得た。この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めた。 この戦争では特に戦車及び軍用機が、ヨーロッパの戦場で主要な役割を果たし注目された。戦場マスコミ報道の出現は空前のレベルで人々の注目を集めた(小説家のアーネスト・ヘミングウェイやジョージ・オーウェル、写真家のロバート・キャパらが関わった)。そのため、この戦争は激しい感情的対立と政治的分裂を引き起こし、双方の側の犯した虐殺行為が知れわたり有名になった。他の内戦の場合と同様にこのスペイン内戦でも家族内、隣近所、友達同士が敵味方に別れた。共和国派は新しい反宗教な共産主義体制を支持し、反乱軍側の民族独立主義派は特定複数民族グループと古来のカトリック・キリスト教、全体主義体制を支持し、別れて争った。戦闘員以外にも多数の市民が政治的、宗教的立場の違いのために双方から殺害され、さらに1939年に戦争が終結したとき、敗北した共和国派は勝利した民族独立派によって迫害された。人民戦線派の反カトリック姿勢は徹底しており、内戦中、人民戦線派支配領域で殺害された聖職者は、その1割に相当する7,000人に上り、その大半は内戦当初の1936年秋に殺害された[2]。 邦訳についてはスペイン内乱、スペイン市民戦争とも表記される。 第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立した。 1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立した。他の西洋諸国とは異なり、スペインの社会労働党や左派共和主義者は暴力革命志向であり、カトリック教会の施設破壊や略奪が、左派指導者の使嗾あるいは黙認の下で行われたため、左派の政権運営は混迷を深めた。多くの国民が左派政権に失望するなかで行われた1933年の総選挙では、スペイン自治右派連合(CEDA)が第一党となった。アルカラ・サモラ
概説
背景プリモ・デ・リベラ
7月12日、共和派軍人として有名であった突撃警備隊(スペイン語版)中尉ホセ・デル・カスティージョ(スペイン語版)が4人のファランジストによって暗殺される事件が発生。グアルディア・シビル大尉フェルナンド・コンデス(スペイン語版)に率いられたカスティージョの同志達は報復として、翌7月13日にスペイン保守派の中心人物の一人であったホセ・カルボ・ソテーロ(スペイン語版)を暗殺した。ソテロ暗殺は、警察による組織的犯行という点で、欧州議会制デモクラシーの社会では例を見ない事態であった[5]。
キローガ政権は暗殺に非難声明を出し、アサーニャ大統領を始めとする政権内の穏健派は、暗殺が反乱の引き金になると憂慮したが、ソテーロ暗殺により、「もはや反乱を起こさない方が、起こす方よりも危険である」との認識が広まり、その危機感をバネに兼ねてから反乱を準備していた右派は急速に結束した。一方、人民戦線内の社労党左派や共産党などは民兵の動員に走り、労働者への武器供与を要求した。また、ストライキの頻発や地方議会の打倒など、革命ムードを高めて行った。
7月17日、エミリオ・モラ(スペイン語版)を首謀者として、モロッコのメリリャで反乱が起こった。