スペイン・ブルボン朝
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この動きに対し、イングランドオランダオーストリア・ハプスブルク家は反ブルボン同盟を締結した(後にサヴォイアポルトガルが加わる)。同盟は1702年宣戦布告を発し、スペイン継承戦争が勃発する。

同盟軍は国境を脅かすとともに切り崩し工作を行った。カトリック両王の時代に統一国家としてのスペインが成立したと一般に思われがちであるが、各地方では諸王国時代の制度がそのまま維持されており、一種の「連邦王国」とも言える同君連合体制だったのである(アブスブルゴ朝時代にはポルトガルもそうした形で併合されていた)。工作は成功し、最初にカタルーニャが、次にアラゴンバレンシアが同盟に寝返った。そしてオーストリア大公カール(後の神聖ローマ皇帝カール6世)が「スペイン王カルロス3世」と称した。フェリペ5世に残されたのはカスティーリャのみとなり、それすらも危うい状況だった。

この危機的状況に対して、フェリペ5世はカトリック信仰を持ち出すことで打開を図った。同盟側のほとんどがプロテスタントだったからである。フェリペ5世の作戦は成功して、アラゴンとバレンシアは奪還できたが、カタルーニャはなおも抵抗を続けた。一方の同盟側も足並みが乱れ、結局1713年ユトレヒト条約と翌年のラシュタット条約によってフェリペ5世の王位は承認されたが、その代償は莫大なものであった。フランスとの連合を禁じられたのみならず、イギリス(1707年にグレートブリテン王国が成立)にはメノルカジブラルタルを、サヴォイアにはシチリアを、そしてオーストリアには南ネーデルラントミラノ公国ナポリ王国サルディーニャをそれぞれ割譲することを強いられたからである。こうした犠牲を払って王位を認められたフェリペ5世は、抵抗を続けるカタルーニャを制圧してスペインを事実上掌握した。
スペインの「誕生」

スペイン継承戦争を機に、フェリペ5世は中央集権化を進めることにした。国内を構成する諸王国に対して新組織王令を発動し、各国の地方諸特権を廃止して「滅亡」させ、一人の君主の下で唯一の議会を有する政治体制へと移行した。名実ともにスペインが「誕生」したのである。しかし、これはカスティーリャ人による強権支配以外の何物でもなく、現在のスペインにまで暗い影を及ぼしている。
王妃エリザベッタの国政介入とイタリア奪還の企て

1714年に妃であったマリア・ルイーザが死去すると、フェリペ5世はパルマファルネーゼ家出身のエリザベッタ・ファルネーゼと再婚して7人の子供を儲けた。エリザベッタはフェリペ5世との間に出来た2人の男子を自分の故郷であるイタリアの王位に就けようと試み(これにはユトレヒト条約の失地回復も兼ねている)国政に介入するようになる。これを忠実に実行したのがパルマ出身の枢機卿ジュリオ・アルベローニであり、彼は1717年に軍を派遣してサルディーニャとシチリアを奪還することに成功した。スペインの泥棒行為に対してイギリス、オランダ、オーストリア、さらには「本家」であるフランスもが「四国同盟」を結成して対抗することになった(四国同盟戦争)。結果、スペインは占領地を失い、アルベローニは責任を問われて失脚した。

国政の混乱が身に応えたのか、フェリペ5世は鬱病に陥り、先妻との子であるルイス1世に王位を譲るが、ルイス1世は1年足らずで死去して、フェリペ5世は復位を余儀なくされる。

1729年セビリア条約で、エリザベッタの念願であった実子カルロスパルマ公位獲得が認められた。加えて、ポーランド継承戦争(この戦争の際にフランスと「第1回家族協定」を結んで関係改善を図っている)の結果、カルロスはナポリ及びシチリアの王位も獲得した。代償としてパルマを放棄することを余儀なくされたが、そのパルマもオーストリア継承戦争の結果、カルロスの弟フェリペが公位に就くことで回復している(フェリペの家系はブルボン=パルマ家と呼ばれる)。
カルロス3世の中興
カルロス4世とマヌエル・デ・ゴドイの寵臣政治フランシスコ・デ・ゴヤ『カルロス4世の家族』(1800年 - 1801年、プラド美術館所属)。この絵の画面中央、国王夫妻の間にいる赤い服を着た子供は夫妻の末子のフランシスコ・デ・パウラであるが、実の父親はカルロス4世ではなくゴドイだと言われる。

1788年にカルロス3世が死去し、息子カルロス4世が王位を継いだ(カルロス4世の弟フェルディナンドは父のスペイン王即位時にナポリおよびシチリアの王位を継いでいる)。カルロス4世は体格だけが立派な暗君とも言える人物であった。そのカルロス4世が即位早々にして直面したのが、1789年に起きたフランス革命である。筋金入りの反革命主義者であったカルロス4世は、国内の啓蒙主義者を取り締まるとともに、最初にフロリダブランカ伯爵を、次にアランダ伯爵を登用したが、いずれも期待にそぐわなかったので罷免した。代わって1792年に宰相に抜擢されたのが、25歳のマヌエル・デ・ゴドイであった。

ゴドイは元は一介の近衛兵に過ぎなかったが、カルロス4世の妃マリア・ルイサ・デ・パルマの愛人となり、急速に台頭した(ただし、近年ではこの説に異論が出ている)。ゴドイが宰相となった翌年に、フランス王ルイ16世が処刑された。この報に憤激したカルロス4世とゴドイは、イギリスの首相小ピットが提案した第一次対仏大同盟にスペインを参加させ、フランスに向けて軍を発した。反革命戦争は逆にフランスの侵入を招き、加えて国内では身分の上下を問わず革命思想が浸透することになった。結局、スペインの疲弊とフランスでの穏健派の台頭により、1795年バーゼル講和条約が締結された。ゴドイは、この功績により「平和公」の称号を得た。そして1796年サン・イルデフォンソ条約が結ばれて、フランスとスペインの軍事同盟が成立した。だが、これはスペインの植民地を狙っていたイギリスに侵入の好機を与え、ジブラルタルとトリニダード島を奪われた。窮地に陥ったゴドイは啓蒙改革派を登用することで打開を図ったが、国内の啓蒙改革派とフランスの圧力によって失脚させられ、新たにホベジャーノス(スペイン語版、英語版)が政権を担うことになった。

その頃、フランスでは1799年ナポレオン・ボナパルトが政権を掌握した(ブリュメールのクーデター)。ゴドイはナポレオンに取り入り、1800年に復帰する。権力の座に戻ったゴドイは徹底的に反動政治を行うなど、権威を振るったが、これはナポレオンの傀儡と化したことを意味していた。それを象徴するのが、ナポレオンが皇帝となった翌1805年に起きたトラファルガーの海戦である。この海戦にフランスと共に参加したスペインの主力艦隊は、ホレーショ・ネルソンによって完膚なきまでに叩きのめされた。

ゴドイの専横に対して、国内の自由主義者たちは苦々しく思い、アストゥリアス公フェルナンド王子の下に集結した。ゴドイをひたすら寵愛する父母に幻滅したフェルナンドもこれに同調し、両者は1807年クーデターを企てる。それ自体は失敗に終わったが、人々からの支持は大きかった。そしてフェルナンドと自由主義者に再び好機が訪れた。ナポレオンは大陸封鎖令に違反したポルトガルを討つために、フランス軍をスペインへ送った。


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