スペイン・ブルボン朝
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ナポレオンは大陸封鎖令に違反したポルトガルを討つために、フランス軍をスペインへ送った。その際、カルロス4世とゴドイはナポレオンと共にポルトガルを分割することを約束したが、むしろフランスの行為を脅威と思い、密かに脱出しようとした。これを好機とした自由主義者は1808年にクーデターを起こし、ゴドイとカルロス4世を失脚させた。フェルナンドはフェルナンド7世として即位したが、カルロス4世も退位を撤回して両者はナポレオンに裁断を仰いだ。ナポレオンは両人を捕えて、自分の兄ジョゼフをスペイン王に就けた。こうしてブルボン朝は最初の中断を迎えた。
スペイン独立戦争詳細は「スペイン独立戦争」を参照ゴヤの「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」ゴヤはフランス軍による市民の虐殺をこの絵で激しく非難した。

新たに「スペイン王ホセ1世」になったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問を廃止するなど進歩的な改革を行い、自由主義者たちの支持を得た。これに対して聖職者は、スペイン継承戦争と同じくカトリック信仰を呼びかけることで叛旗を促した。この策は成功を収め、多くの民衆がボナパルト体制に異議を唱えてゲリラ戦を行った。また、イギリス・ポルトガル軍もフランス支配打倒のために軍を派遣した。ナポレオンは大軍を投じたが、民衆のゲリラ活動、そしてウェリントン侯率いる連合軍の前に敗北を喫した。1813年にジョゼフは退位し、同年のヴァランセー条約でフェルナンド7世の復位が認められた。

スペイン独立戦争は多くの物資をいたずらに消耗し、ナポレオン失脚の遠因となった。ナポレオン自身も後に「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語っている。戦場となったスペインはもっと深刻であった。戦争の結果、産業・農業が完全に破壊されたのである。破壊活動はフランス軍のみならず、味方であるはずのイギリス軍とポルトガル軍、さらにはゲリラやスペイン正規軍も行っていた。加えて敵味方問わず、略奪を頻繁に行ったため、多くの美術品が散逸することになった(ウェリントンもどさくさに紛れて美術品を多数横領している)。
フェルナンド7世の反動政治
絶対主義への回帰と自由主義革命フェルナンド7世(ゴヤ画)は反動政治を行ったことから暴君と評価されている。

自由主義者たちから歓喜の声をもって迎えられたフェルナンド7世であったが、その期待は裏切られた。1814年には多数の自由主義者を逮捕するとともに、1812年に制定されたカディス憲法の無効を発表したのである。さらには、ボナパルト朝時代に廃止された領主裁判権や異端審問を復活させ、検閲制度を強化させた。

フェルナンド7世に幻滅した自由主義者たちは秘密結社を形成し、1820年リエゴ将軍の下でスペイン立憲革命が勃発する。フェルナンド7世はカディス憲法への誓約を余儀なくされ、自由主義の時代が始まった。この時代には、異端審問所の再廃止や経済の自由化といった革新的な改革が次々と行われたが、この政策はかえって地方の保守的な農民層の反発を招き、自由主義者たちも分裂して不安定極まりなかった。これを好機と見たヨーロッパ諸国は、ウィーン体制維持のために復古王政下のフランスにスペインの自由主義を潰すように頼み、ルイ18世もこれに応える形で「聖ルイの10万の息子たち」と称したフランス軍を派遣して1823年に自由主義政府を滅亡させた。リエゴは反逆罪で処刑されたが共和主義者の象徴となり、それを称えた『リエゴ賛歌』は第二共和政時代スペインの国歌となった。

政権に返り咲いたフェルナンド7世は再び反動政治を行うが、駐留したフランス軍から新体制への転換を求められ、次第に自由主義者たちと接近するようになり、進歩的な改革を行うようになった。
ラテンアメリカ諸国の独立詳細は「ラテンアメリカ諸国の独立」を参照

フランス革命戦争ナポレオン戦争はスペインに革命・自由主義思想をもたらしたが、スペイン領であったラテンアメリカ諸国にまで及ぶことになった。新思想に最も染まったのがクリオーリョであり、彼らは本国スペインに対して独立戦争を起こした。プエルトリコキューバを除く全ラテンアメリカ諸国が独立を達成し、スペインは広大な植民地、そして市場を失うに至った。半島戦争に次ぐ大打撃であった。
後継者問題

フェルナンド7世は4回結婚したが、女子しか儲けることが出来なかった。ブルボン朝以前のスペインではイサベル1世に代表されるように女子・女系の相続は珍しくなかったが、ブルボン朝の成立と共にサリカ法が導入されて男系による王位継承しか認められなくなっていた。サリカ法に従えば、弟のカルロスが王位を継ぐことになるが、フェルナンド7世は敢えてサリカ法を廃し、長女のイサベルを後継者に指名した。イサベルの王位継承を安定化させるため、フェルナンド7世は自由主義者たちとの連携を更に深め、彼らの意に沿う改革を次々と行った。逆に王位を狙うカルロスは保守派との連携を深めた。
イサベル2世と新旧両派の抗争
カルリスタ戦争詳細は「カルリスタ戦争」を参照イサベル2世と王配フランシスコ・デ・アシス

1833年にフェルナンド7世が死去すると、遺言通りにイサベル2世が即位した。これに対してカルロスは自らをカルロス5世と称して即位宣言を行った。カルロスを支持する一派をカルリスタと呼ぶ。カルリスタはナバラバスクなどのスペイン北部の保守派、特に聖職者や農民層に支持基盤を置いていた。そしてカルリスタは一斉蜂起を行い、内戦が勃発する。その勢いは凄まじく、1837年のカルロス自らの遠征ではマドリード近郊まで迫ったほどであった。

カルリスタの猛攻に対して、イサベル2世の母で摂政であったマリア・クリスティーナは自由主義勢力との連携を深めることにし、マルティネス・デ・ラ・ロサに政権を委ねた。マルティネスは国内の自由主義派やイギリス、フランス、ポルトガルからの支持を取り付けることに成功させ、カルリスタの内部分裂も相まって、戦局を有利に展開させた。1839年にベルガーラ協定が結ばれて内戦が終結し、カルロスはフランスへ亡命した(残党勢力も翌年にフランスへ亡命した)。

イサベル2世は1846年に父方の従兄であるカディス公フランシスコ・デ・アシスと結婚し、アルフォンソなど12人の子供を儲けており、一応はブルボン家の男系を保つ形となっている。ただし、フランシスコは同性愛者もしくは性機能障害という説があり、子供たちの父親は別にいるのではないかとの噂がある。
9月革命

1868年9月17日に進歩派のプリム将軍の下に集結した進歩派の軍人たちはクーデター宣言を行い、これに応える形でセビーリャマラガアルメリアの守備隊たちが一斉に蜂起した。市民の間でも蜂起が広まり、革命評議会が結成されていく。そして9月28日にセラーノ将軍率いる反乱軍の前に政府軍が敗れたのが決定的になり、マドリードでも革命評議会が結成されてブルボン朝の打倒が宣言された。孤立無援状態になったイサベル2世は、フランスに亡命した。時のフランス皇帝ナポレオン3世の皇后ウジェニーがスペイン貴族出身だったからである。この9月革命によって、ブルボン朝は再び中断する。フランスに亡命したイサベル2世は、1870年に息子のアルフォンソ12世に王位を譲っている。
サボイア朝、第一共和政からアルフォンソ12世の即位戴冠式の行われるマドリードへ向かうアマデオ1世。停泊しているのはスペイン海軍装甲艦ヌマンシア

革命評議会はセラーノを首班とする内閣を結成し、翌年に1869年憲法が公布された。新政府は立憲君主制を模索し、外国から君主を迎えようとした。最初はホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の公子レオポルトが選ばれたが、ナポレオン3世の圧力で潰された(この問題は後々まで尾を引き、普仏戦争の原因となる)。


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