スペイングランプリ
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1968年よりF1世界選手権に復帰し、1975年までマドリード近郊のハラマ・サーキットとバルセロナの公園内にあるモンジュイック・サーキットで交互に開催された。モンジュイックはガードレールなど施設安全面に問題があり、1975年の観客死傷事故を最後に使われなくなり、1976年から1981年まではツイスティーなハラマで連続開催された。

1986年にはアンダルシア州に新設されたヘレス・サーキットで再開され、隣国のポルトガルGPとセットで、シーズン終盤の「イベリア半島連戦」として開催された。ヘレスはハラマと似た抜き所の少ないレイアウトが歓迎されず、1991年以降はバルセロナ郊外に新設されたカタロニア・サーキットに舞台を移すことになった。

2008年からバレンシア市街地コースヨーロッパGPの開催が始まったことにより、スペインで2つのレースが開催されることになったが[注 1]FIAによる1国1開催の徹底やスペイン国内の経済状況も踏まえ、2014年よりカタロニアとバレンシアで隔年開催することに合意したと伝えられたが、カタロニア側は少なくとも契約期間内の2016年までは当地で開催すると主張し[3]2013年からはカタロニアのみの開催となった。2015年、カタロニアとの開催契約を2019年まで延長することが発表された[4]

2020年以降の開催に関しては、F1を経営するリバティメディアとの交渉は2018年から行われていたが、観客動員数の減少や同国の英雄フェルナンド・アロンソが2019年以降の動向が不透明である点から[5]、交渉に進展がなく、むしろ例年カタロニアで開催されている5月にオランダGPが復活する見込みとなったことやアロンソがF1引退という形で2019年以降参戦しないことを表明したため(当時はF1引退と見られていたが、2021年にF1復帰を果たしている)、開催継続が危ぶまれていた。主催者であるRACC(カタルーニャ・リアル自動車クラブ)は開催継続へ向けて[6]、スペイン政府などに財政支援を要請した結果[7]カタルーニャ州は1年の開催延長を承認し、ひとまず2020年の開催にこぎつけ[8]2021年以降の開催契約交渉についての猶予を得ることができた。だが、猶予を得て交渉は行われていたものの[9]、2021年は何とか開催契約を締結したものの[10]、2022年以降の契約に関しては進展がなく、メディアからは、スペインGPは、2022年以降のF1のスケジュールから脱落する候補と思われていた[11]。そんななか、2021年11月に一部メディアでカタルーニャ州政府が契約更新を承認したと報道[12]。その報道の数日後の2021年11月26日、スペインGPの開催契約を2026年まで延長したことを発表[13]。これにより、スペインGPは少なくとも2026年までカタロニアで開催される予定であったが、2026年からマドリード市内の公道及び常設コースを組み合わせた新設サーキットで2035年までの開催契約が2024年1月に結ばれた[14]
主な出来事2003年のスペインGP

1951年 - F1での初開催は最終戦のチャンピオン決定レースとなった。フェラーリチームがタイヤ選択を失敗し、アルファロメオファン・マヌエル・ファンジオが自身初のタイトルを獲得した。この年限りで撤退するアルファロメオにとって、F1最後の勝利となった。

1969年 - 高層式ウイングの破損によりロータスヨッヘン・リントがクラッシュして顔面を骨折。次戦モナコGPよりウィングの固定や高さ制限が導入された。

1975年 - 予選では安全対策の不備を理由にボイコット騒ぎが発生。レースはロルフ・シュトメレンのコースアウトにより観客4人の死亡事故が発生し赤旗終了。F1史上2人目の女性ドライバーであるレラ・ロンバルディが6位入賞して0.5ポイントを獲得し[注 2]、F1で唯一の入賞記録を持つ女性ドライバーとなった。

1976年 - このレースよりマシンの全高制限が施行され、当時流行した大型インダクションポッドが姿を消した。ティレルの6輪車P34がデビューした。トップチェッカーを受けたジェームス・ハントマクラーレン)が車両寸法違反により失格し、ニキ・ラウダ(フェラーリ)が繰り上がり優勝と判定されたが、マクラーレンの抗議で2ヵ月後にハントの優勝が復活した。

1980年 - 国際自動車スポーツ連盟(FISA)とF1コンストラクター協会(FOCA)の政治的対立のあおりを受け、レース後にFOCAから選手権除外を通達された。

1981年 - ジル・ヴィルヌーヴ(フェラーリ)、ジャック・ラフィットリジェ)、ジョン・ワトソン(マクラーレン)、カルロス・ロイテマンウィリアムズ)、エリオ・デ・アンジェリス(ロータス)の5人が相次いでゴールし、優勝から5位までが1.24秒差という緊張感あふれるレースが展開された。2位以下の車が、後続よりも明らかに遅い首位のフェラーリを抜くことが出来なかったことで、ハラマにおけるコース幅の狭さとストレートの短さをあらわしたレースとなった。

1986年 - 新設のヘレスで行われ、アイルトン・セナ(ロータス)とナイジェル・マンセル(ウィリアムズ)によりその差0.014秒というゴール前での僅少差の攻防戦が演じられた。

1990年 - マーティン・ドネリー(ロータス)が瀕死の重傷を負う大クラッシュが発生。

1994年 - ベネトンミハエル・シューマッハは5速ギアしか使えなくなってしまったマシンを巧みに駆り、2位でフィニッシュした。

1996年 - シューマッハが大雨の中で独走し、フェラーリ移籍後初優勝を果たす。

2001年 - スペインGP4連勝を目指したミカ・ハッキネン(マクラーレン)が優勝目前の最終ラップにマシントラブルのためリタイア。

2004年 - ジミー・ジャンプがコースに乱入。

2006年 - ルノーフェルナンド・アロンソがスペイン人ドライバーとして初の母国GP制覇。


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