スプルーアンス級駆逐艦
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スプルーアンス級駆逐艦

基本情報
艦種駆逐艦 (DD)
命名基準海軍功労者
建造所インガルス造船所
運用者 アメリカ海軍
建造期間1972年 - 1983年
就役期間1975年 - 2005年
建造数31隻
前級フォレスト・シャーマン級
準同型艦キッド級 (DDG)
タイコンデロガ級 (CG)
次級アーレイ・バーク級 (DDG)
要目
#諸元表を参照
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スプルーアンス級駆逐艦(スプルーアンスきゅうくちくかん、英語: Spruance-class destroyer)は、アメリカ海軍駆逐艦の艦級[1]。アメリカ海軍の大型艦として初めてガスタービンエンジンを搭載したほか[2]、船型の拡大や遮浪甲板船型の採用など新機軸が多く、キッド級ミサイル駆逐艦タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦のベースともなった[3]

優れた対潜艦として活躍したほか、冷戦終結後のマルチハザード化およびグローバル化に伴う任務の多様化を受けて、搭載するトマホーク巡航ミサイルによる対地攻撃力が注目され、従来の駆逐艦の枠をこえて攻勢的に用いられた[4][5]
来歴
シーホーク計画とその挫折

新型対潜駆逐艦の計画は1959年5月の長期目標策定グループ(LRO)の提言にまで遡る。LROは、当時建造されていたDDG・DLGについて、AN/SQS-23ソナーは1965年以降の潜水艦には対抗困難であり、またテリアターター・システムは1965年以降の航空機には不十分であると見積もった。この時点では、アレン・M・サムナー級ギアリング級などの大戦型駆逐艦の代替はまだ先の問題だと考えられており、それよりは空母機動部隊や対潜掃討群のためのハイテク護衛艦のほうが切迫した要請であった[6]

しかし艦隊再建近代化計画(FRAM)によって装備の更新強化が図られていたとはいえ、大戦型駆逐艦は既に運用寿命の末期に差し掛かっており、1961年9月、LROはこれらのFRAM艦の後継となる新型対潜駆逐艦に関して検討した。これらの検討を経て、まず1961年9月23日より、基本計画審議委員会(Ship Characteristics Board, SCB)において新型対潜駆逐艦に関する検討が着手され、1962年4月23日にはシーホーク計画(SCB239)として具体的な計画策定に入った[6]

シーホーク計画艦は、当時開発されていた様々な対潜センサー・兵器のプラットフォームとして予定されており、1965年度計画にプロトタイプを盛り込み、1967年度第4四半期に起工、1968年に進水し、1969年夏に竣工予定であった。ただし搭載予定の統合戦闘システムの完成は1971年中頃になると見込まれたことから、このプロトタイプ艦はあくまで船体や機関、ソナーなどの試験艦になる予定であった。また1962年8月にはミサイル航洋護衛艦(DEG)の計画が着手されていたが、これもシーホーク計画艦に合流させうると考えられていた[6]

当初、シーホーク計画艦の開発の主眼は搭載するセンサーや兵器に置かれていたが、まもなく主機が問題になった。従来通りのギアード・タービン方式のほか、COSAGCODAGCOGAGが俎上に載せられた。ガスタービンエンジンは好評を博し、1964年3月に作成された試案ではCOGAG方式で125,900馬力とし、満載排水量6,150トンで最大速力38ノットを確保する予定とされていた。しかし、特に国防長官府 (OSD) の防衛科学技術担当長官 (DDR&E) は、原子力推進を推進する派閥の影響を受け、これと共通の技術を用いたギアード・タービン方式に拘泥していたほか、システム開発ではなく主機に重きを置く計画の趨勢そのものに反発していた。特に当時、SOSUSの整備などを背景に対潜戦のパッシブ化が志向され、潜水艦を含めて、対潜戦の枠組みそのものの大変革が進められていたことから、防衛科学技術担当長官は、システム開発への回帰を勧告した[6]

当時、ブロンシュタイン級を端緒とするSCB199シリーズの航洋護衛艦は大型化・高性能化を繰り返しており、1964年度計画のノックス級(SCB199C計画型)では更なる拡大強化が図られていた。これに伴い、1964年までに、速力を除けば、航洋護衛艦とシーホーク計画艦との差異は不明瞭化していた。このように計画が錯綜し、また搭載すべき各種システムがいずれも開発途上であったこともあって、1965年2月に発表された1966年度予算説明において、ロバート・マクナマラ国防長官はシーホーク計画の中止を発表した[6]
高速DEとDX/DXG構想

対潜戦のパッシブ化に伴う広域化を受けて、この時期、航洋護衛艦(DE)についても高速化が志向されていた。1964年3月17日、海軍作戦部長の指示により、1966年度計画艦には30ノットを発揮できて即応性に優れた主機を、そして1968年度計画艦にはシーホーク計画艦の主機を搭載して35ノットを狙うこととなった。まず1964年6月、チャールズ・F・アダムズ級ミサイル駆逐艦の主機(70,000馬力)を搭載する案が作成された。また11月には、従来の航洋護衛艦を元にした設計にCOGAG主機を組み合わせて35ノットを発揮する設計が作成された。実際には1968年度計画で航洋護衛艦は建造されず、また建造されたとしても従来のノックス級と大きな差異が生じたかは不確実であるが、これらの検討は後のDX/DXG構想の底流の一つとなった[3]

一方、1962年度計画以降、防空ミサイル艦の建造は途絶えていたことから、こちらの建造も検討されていた。当時、ミサイル巡洋艦12隻、ミサイル嚮導駆逐艦30隻、ミサイル駆逐艦31隻、ミサイル航洋護衛艦6隻の計79隻が就役しており、15個の空母機動群に4隻ずつ、4個の対潜空母機動群に2隻ずつ、その他の任務に11隻を配分する計画となっており、一応は充足していた。しかしミサイル巡洋艦の大部分は、大戦世代の砲装型巡洋艦を改装したもので、まもなく退役時期を迎えるであろうし、その場合にはミサイル艦不足に陥ることが予想された[3]

これらの情勢を受けて、シーホーク計画が中止されたのち、1966年より国防長官府において、DX/DXG構想が開始された。これは、大戦型駆逐艦の代替たる対潜艦DXとともに、その設計に基づいて艦隊防空システムを搭載した防空艦としてDXGを建造するという構想であった。このDXGは、ミサイル駆逐艦(DDG)というよりは実質的にミサイル嚮導駆逐艦(DLG)に近いものであり、DXはその武装削減版というべきものとなっていた。1966年当時の初期計画では、1969年度から74年度の間にDXを75隻、DXGを18隻建造して、計画全体での合計コストは24億ドルとなる予定であった。その設計に当たっては、変化に応じる設計が標榜されており、また、コスト削減のため、一括調達方式が採用された。これは、海軍がコンセプト形成を行なって、これに対して最適な提案を行なった事業者に対して一括して契約するものである[5]

1967年末にはコンセプト形成はほぼ完了しており、1968年1月、大統領のメモによって要目が承認された。同年、各造船所に対して、設計と建造計画の提示が求められた。これに応募したのは、ニューポート・ニューズ造船所エイボンデール造船所バス鉄工所トッド造船所ジェネラル・ダイナミクス・クインシー、そしてリットン・インガルス(リットン・インダストリーズ、現ノースロップ・グラマン・シップ・システムズ)であったが、1970年6月、リットン・インダストリーズが勝者として、DX 30隻の建造を受注した[5]


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