スプリット・シングル_(内燃機関)
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1908年から1915年に掛けて英国ウェスト・ヨークシャーハダースフィールドに存在した零細自動車メーカー、バルブレス(英語版)もスプリット・シングルを製造していた記録が残る。1919年にロンドンで発行されたオートカーハンドブック(第九版)に掲載されたバルブレス製エンジンの概念図では、左右のピストンがそれぞれ独立したクランクシャフトを回転させてギアで同調を行う、U型エンジンに近い構成であった事が印されている。ラルフ・ルーカス製エンジン、米国特許US952706Aの図面。

このエンジンは元々は、1901年から1908年に掛けて同じ英国で灯油を燃料とする自動車を製造していたラルフ・ルーカス(英語版)の設計を引き継いだものとされており、当時の自動車雑誌では「低速ギアに変速せずとも、高速ギアのままで長い勾配の坂を登坂できた」と評されていたという[10]。ラルフ・ルーカスやバルブレスのような独立したクランクシャフトを持つスプリット・シングルは、ユンカース ユモ 205のような上下対向エンジンをU型に曲げたものという解釈も出来る為、対向ピストン機関として分類される事もある。
プフ (1923 - 1970)北米市場でシアーズ・ツイングルの名称で販売、戦後のプフを代表するスプリット・シングルであるプフ・250SGS

第一次世界大戦終結後、オーストリア=ハンガリー帝国は解体され、オーストリア第一共和国技術産業も回復に苦慮した。イタリア人技術者ジョヴァンニ・マルセリーノはグラーツのプフ主力工場に、同社廃業に携わる為に着任した。工場清算されたが彼はそのまま街に定住し、1923年に産業用対向ピストンエンジン[注釈 1]インスピレーションを受けた非対称ポートタイミングのスプリット・シングルエンジンを開発した。典型的なオートバイに搭載できるように、マルセリーノの設計は並列(サイド・バイ・サイド)であったガレリのピストンと異なり、直列にピストンが配列された。この新しい方式は長いパワーストロークと優れたシリンダー充填を可能とした。また、V形状とされたコンロッドの曲がりを防ぐために、掃気ポート側ピストンの小端ベアリングがピストン内で前後方向に少しスライドするように配置された[11]1931年、プフはスプリット・シングル過給エンジンでドイツグランプリに優勝したが、その数年後には彼らはDKWのスプリット・シングルの後塵を拝する事となる[12]

第二次世界大戦後、プフの量産及びレース用スプリット・シングルは、1本のコンロッドの後部にヒンジ接続される形に改善された設計で、1949年から生産が再開された。このエンジンは前ピストンが吸気及び排気ポートの開閉を司るため、結果としてキャブレターがエンジン前方、排気管の下部側面に配置される事となった。後ピストンはクランクシャフトからシリンダーへ至る掃気ポートの開閉を司る[13]。更には、これらのモデルには2ストロークオイルを事前混合する為のオイルポンプが装備され(分離給油方式)、オイルはガソリンタンクに内蔵されたオイルタンクから供給された。いくつかのモデルでは8の字形状の燃焼室と、それに合わせたツインプラグ構成の点火装置も与えられた。これらの改良が加えられ、16.5馬力を発揮したプフ・SGSスプリット・シングルを、シアーズはオールステート250 (Allstate 250) またはツイングルの名称で、相当な台数を米国市場で売り上げた。これらの改良によって2ストロークの点火プラグの汚損を始めとする、旧型スプリット・シングルで問題となっていた不具合の多くが改善された。1953年から1970年の間に、プフ・250SGSは38,584台製造された[14]。250SGSの他はプフ・250TFや、175ccのプフ・175SV、500ccのプフ・500等がこの形式を採用した[15]。プフは1950年代にスプリット・シングル搭載車でのレース参戦を諦め[注釈 2]、そしてスプリット・シングルの製造も1970年ごろに終了した。しかし、マシン自体はよく保存され、コレクタブルであるといえる[16]
DKW (1931 - 1939)並列2気筒4ピストン過給エンジンで40馬力を発揮した1939年式DKW・US250

1931年にイング・ツェラーにより製造され、オートバイレースにて用いられたスプリット・シングルエンジンは、戦前の小排気量オートバイレースにおいて、DKWに支配的な地位をもたらす事に貢献した[17]。DKWのスプリット・シングルは戦後のプフが採用したものと同様の、V形状ピギーバックタイプのコンロッドを使用していたが、最大の特徴は燃焼を司るスプリット・シングルの他に、掃気用のシリンダーが別に用意された1気筒3ピストン方式を採用していた点にある[18]。この方式はクランクケースによる一時圧縮が不要となり、潤滑系統を4ストロークエンジンと同様にできる利点があるが、DKWは潤滑方式というよりも掃気シリンダーによる過給効果を期待し、この形式の開発を戦前期に非常に盛んに行った。戦前のオートバイレースのレギュレーションでは、過給機の装着禁止が明文化されていなかった為に、DKWはクランクケース圧縮と掃気シリンダーを併用したものや、掃気シリンダーの代わりに対向ピストンエンジンの掃気装置に類似したベーンポンプ(ベーン式スーパーチャージャー)を装着したものなどを設計している[19][20]。この時期のDKW製スプリット・シングルの代表例がDKW・SS350で、180度対向配置の掃気シリンダーでの過給で32馬力を発揮した[21]。他に250ccのSS250でも同様のコンセプトが採用されたが、両者とも激しい放熱に耐える為に冷却方式は水冷が選択された。第二次世界大戦の勃発でロードレースから一時撤退する1939年末時点では、並列2気筒4ピストン型のUS250は40馬力、US350は48馬力にまで達していたという[20]。しかし、DKWはプフのようにスプリット・シングルを市販車両に展開する事は無く、戦後は簡素な構造ながらも高性能な、ウォルター・カーデンの排気チャンバーを採用した従来型単気筒レーサーの開発に注力した為、スプリット・シングルの系譜は戦前までで途絶えている。
TWN (1946 - 1957)TWN最大級の350cc並列2気筒4ピストンエンジンを採用したTWN・ボス350

ドイツ・トライアンフ(TWN)(: Triumph-Werke Nurnberg)オートバイ会社(元々はイギリスのトライアンフの一部門)は、1939年にスプリット・シングルの実験を開始し、市販車両の量産は1946年の生産再開時に2車種をリリースして開始された。TWN製スプリット・シングルは最初に試作されたBD250のものは独立コンロッド[6]であったが、戦後のスプリット・シングルの多くはガレリに類似したY形状コンロッドを採用し、従ってピストンは並列配置(サイド・バイ・サイド)であった。ただし、TWNのものはこのエンジンはキャブレターがシリンダー・ボア後方のごく普通の場所に配置され、排気管もチャンバータイプのものが使用されたので、通常型の2ストロークエンジンとは視覚上は僅かな差異しか見られなかった[22]

125 ccのBDG125と250 ccのBDG250は1946年から1957年まで[23]、200 ccのコルネット1954年から1957年まで(12V電装でキックスターターが無かった)。ボスは350 ccの並列2気筒4ピストン[6]で1953年から1957年まで、そして200 ccスクーターのコンテッサは1954年から1957年まで製造された[24]。コルネットとボスの球根形状の排気チャンバーはTWN製2ストロークの特徴であり、一見するとスプリット・シングルのようには見えなかった。全てのTWN製オートバイは1957年に製造終了となった。
EMC (1947 - 1952)250ccスプリット・シングルエンジン搭載の1950年式EMC・ツイン

EMCモーターサイクル(: Ehrlich Motor Co)は、第二次世界大戦後にオーストリアからイギリスに移住したオートバイ愛好家、ジョセフ・エーリッヒ博士により設立された個人メーカーであり、1940年代後半から1950年代初頭に掛けてはDKWやプフのスプリット・シングルの内部構造を参考に、既存のエンジン部品を流用する形で独自のスプリット・シングルエンジンを製作した。EMCは1947年から1952年に掛けて125cc、250cc、350cc[25]のスプリット・シングル車を量産販売したが、その総生産台数は各型合計1500台程度とされる[26]


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