さらに2位と3位にギリシャ代表が入り、興奮は最高潮に達した。3位に入ったスピリドン・ベロカス(Σπυρ?δων Μπελ?κα?, Spyridon/Spiridon Belokas)は、後に馬車に乗ってコースの一部を通過したことが発覚し、ハンガリー代表のジュラ・コルダ(ケッルネル・ジュラ、洪:Kellner Gyula)が繰り上げ3位になった。この競技後、雨が降り出した事もあって表彰式は見送られ、翌日にルイスは表彰されている。
ルイスはギリシャ中からプレゼントを贈られた。貴金属といった高価なものから、床屋で一生無料で髭をそってもらえるなど、風変わりなものもあった。ルイスが全ての贈り物をどうしたか解っていないが、贈り物として荷馬車を受け取ったことだけは明らかである。これ以後、選手として再び走ることはなく、農夫、そして後に警察官として静かに生きた。
1926年にルイスは軍勤務時代に公文書偽造をしたと告発されたかどで投獄されたものの、その1年後に無罪とされ、釈放されている。解放前にギリシャの新聞のいくつかで、「国家の英雄であるルイスはそのようなつまらない罪を犯すことがあるはずもなく、逮捕と投獄はギリシャの汚点である」と報じられており、これはルイスが競技の22年後にも依然として有名人であったことを裏付けている。
1936年ベルリンオリンピックに招待されたのが、ルイスが公式の場に登場する最後の機会となった。アドルフ・ヒトラーから平和の象徴として、オリンポス山のオリーブの小枝をヒトラーへ手渡すセレモニーのためにベルリンへ招待されている。この時の記録写真も存在している。
ドイツがギリシャに侵攻する数週間前にルイスは、産まれ故郷のマルーシで死去した。ギリシャの多くのスポーツクラブは、未だにルイスの名前を冠しており、2004年アテネオリンピックのメインスタジアムもルイスの名前がつけられている。なおメインスタジアムは、ルイスの産まれたマルーシにある。
ルイスの死去後、五輪上において最大の栄誉はマラソンで勝利する事と位置付けられそれは現在でも続いている。2004年のアテネ五輪では彼の曾孫のエマニエル・ルイスが祖先の勝利したスタジアムへ聖火を運び、さらには彼を記念したマラソン特別表彰式が閉会式時に行われ、かつその後の北京五輪からはこの表彰式を踏襲して必ず閉会式時に表彰を行う事が定められた。
2012年4月、彼が受け取った銀製のマラソン優勝カップが彼の孫によって、イギリスのクリスティーズで競売にかけられて、オリンピックメモラビアとしては、ヘルシンキオリンピックの聖火トーチの40万ドルを超える史上最高額となる54万1000ポンドで、ギリシャの海運王の遺産で設立されたスタブロス・ニアルコス財団が落札し、ギリシャ国外への流出は防がれた[1][2]。
脚注[脚注の使い方]^ a b “ ⇒第1回五輪マラソンの優勝カップ、7000万円で落札”. CNN (2012年4月10日). 2012年7月10日閲覧。
^ “ ⇒第1回五輪マラソンVカップ競売に ギリシャ流出は阻止” (2012年4月19日). 2012年7月10日閲覧。
外部リンク
日本オリンピック委員会 - オリンピックの歴史
表
話
編
歴
陸上競技オリンピック金メダリスト - 男子マラソン
1896: スピリドン・ルイス (GRE)
1900: ミシェル・テアト (FRA)
1904: トーマス・ヒックス (USA)
1908: ジョニー・ヘイズ (USA)
1912: ケネス・マッカーサー (RSA)
1920: ハンネス・コーレマイネン (FIN)
1924: アルビン・ステンロース (FIN)
1928: ブエラ・エル=ワフィ (FRA)
1932: フアン・カルロス・サバラ (ARG)
1936: 孫基禎 (JPN)
1948: デルフォ・カブレラ (ARG)