スピッツ_(バンド)
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ドラムにはサークル部員を迎えて「チーターズ」[注釈 4]を結成[23][24]。「365歩のマーチ」のパンク調[25]や「『いちご白書』をもう一度」をブラック・サバス風にしてアレンジして演奏していた[24]。途中からギターのメンバーを1人加え、バンド名を「ザ・スピッツ」と変更した[26][20]。ところが、このバンドは草野がTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく[27]」に打ちのめされて活動を休止した[28][29]

1987年に草野が東京造形大学から武蔵野美術大学に再入学したことを期にバンド仲間と疎遠になり、ザ・スピッツは自然消滅となるが、草野と田村の仲は継続していた[30][31]。ある日、草野がライブハウスで演奏することができる本格的なバンド活動の話を持ちかけた[32][33]。すると、田村は上京していた幼馴染の三輪テツヤを誘い、三輪は文化服装学院で同じフォークソング部に所属していたア山龍男を誘った[34][35]。こうしてバンド「スピッツ」を結成し、同年7月17日に文化服装学院の夏祭りで初ライブを行った。[36][37]。その後、新宿ロフトを目標に、新宿JAM 、渋谷ラ・ママ、屋根裏などでのライブ活動を開始し、1988年5月からは歩行者天国でのライブを行った[38][39]

音楽評論家の富澤一誠は「インディーズ時代のスピッツを形容する表現は〈ビートパンク〉」であると述べている[40]。当時のバンドはTHE BLUE HEARTSの影響から抜け出せずにおり、渋谷ラ・ママの店長(ブッキング・マネージャー)からTHE BLUE HEARTSの二番煎じでは先は望めないと指摘された[41][42]。また、草野も@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ハンドマイクで暴れたり[要出典]、観客を煽ったりするスタイルが自分に似合わない[43]と感じ始めており、ドノヴァンを意識してアコースティック・ギターを持つようになった[44][45]。この時期にはすでに「恋のうた」や「ヒバリのこころ」などを制作している。1988年にはソノシート『鳥になって/UFOの見える丘』を自主制作した[46]

1989年になると新宿ロフトのイベントに出演するようになり、7月12日には新宿ロフトでのワンマンライブを行って300人を動員した[47]。同年12月からは新宿ロフトでのマンスリーライブ『鳥になっちゃう日』を開催し[48]、翌年には新宿ロフトのインディーズレーベル・ミストラルから初のCDヒバリのこころ』をリリースした[49][50]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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