スピッツ_(バンド)
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音楽評論家の富澤一誠は「インディーズ時代のスピッツを形容する表現は〈ビートパンク〉」であると述べている[40]。当時のバンドはTHE BLUE HEARTSの影響から抜け出せずにおり、渋谷ラ・ママの店長(ブッキング・マネージャー)からTHE BLUE HEARTSの二番煎じでは先は望めないと指摘された[41][42]。また、草野も@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ハンドマイクで暴れたり[要出典]、観客を煽ったりするスタイルが自分に似合わない[43]と感じ始めており、ドノヴァンを意識してアコースティック・ギターを持つようになった[44][45]。この時期にはすでに「恋のうた」や「ヒバリのこころ」などを制作している。1988年にはソノシート『鳥になって/UFOの見える丘』を自主制作した[46]

1989年になると新宿ロフトのイベントに出演するようになり、7月12日には新宿ロフトでのワンマンライブを行って300人を動員した[47]。同年12月からは新宿ロフトでのマンスリーライブ『鳥になっちゃう日』を開催し[48]、翌年には新宿ロフトのインディーズレーベル・ミストラルから初のCDヒバリのこころ』をリリースした[49][50]

新宿ロフトに出演するようになった頃、多くのレコード会社からメジャー・デビューの話が持ち掛けられる[51][52]。その中には、後にスピッツのディレクターとなるポリドール(当時)の新入社員であった竹内修もいた[49][52]。ところが、メジャー・デビューすることによって自分たちのビジョンが変えられてしまうことを恐れていたメンバーは、レコード会社の前に事務所を決めたいと提案し、当初は浜田省吾の個人事務所として設立していたロード&スカイを紹介してもらう[40][53][52]。約1年間の交渉の末、ロード&スカイやポリドールとの契約を交わした[52]
1991年(メジャー・デビュー) - 1996年

1991年、新宿シアターモリエールにて『"五千光年の夢" シアターコンサート Vol.1』を開催。ライブは東名阪のライブハウスで同年9月のVol.4まで全10公演を行った。3月25日、ポリドールよりシングル『ヒバリのこころ』と、アルバム『スピッツ』を同時発売でメジャー・デビュー。翌月アルバム収録曲の「ニノウデの世界」がFM802ヘビー・ローテーションに選ばれた[54][55]ほか、音楽雑誌ROCKIN'ON JAPAN』では90年代型のニュー・ウェイヴとしてカラーで取り上げられる[56]などの注目を浴びるが、オリコンチャートにはランクインしなかった。その後、2ndシングル『夏の魔物』、オーケストレーションに長谷川智樹を迎えた3rdシングル『魔女旅に出る』、2ndアルバム『名前をつけてやる』をリリース。初のホールツアー『CONCERT TOUR 1991 名前のないツアー』を開催した。

1992年、長谷川智樹を共同アレンジャーに迎えてオーケストラアレンジを施したミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』をリリースし、よみうりホールでは一夜限りで弦楽奏者と共演したライブ『オーロラになれなかった人のために "蜜柑色の満月のもとで、まぼろしの物語を語ろう?一夜限りの絵空事?"』を開催した。同年5月には公式のファンクラブ「スピッツベルゲン」(Spitzbergen)が発足した。


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