スパルタ
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紀元前743年、スパルタは自分たちの部族の統一もままならない中、西の隣国、メッセニアを征服した(第一次メッセニア戦争)。この戦争はスパルタがギリシアの強国となるための一つのステップであったといえる。このため、スパルタは、当時のポリスのなかでもその領域は例外的に広かった。奪った土地はスパルタ市民に均等配分され、約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイは奴隷の身分から解放されることも移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千?1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプテイア(英語版)(κρυπτε?α)と呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れて彼らの集落を襲い、未然に防いだ。

紀元前685年、スパルタの軛に耐えかねたメッセニア人たちは反乱を起こし(第二次メッセニア戦争)、それは周辺諸国をも巻き込んだ戦争になった。前半の戦況はメッセニア優位であったが、大掘割の戦いでのスパルタの勝利が転換点となり、戦局はスパルタ優位に転換、ついにエイラ山(英語版)(Ε?ρα)の陥落を以ってスパルタの勝利に終わった。この事件からスパルタ人はヘイロタイに対する締め付けを強化した。
ペロポネソス同盟とペルシア戦争詳細は「ペルシア戦争」を参照

第二次メッセニア戦争を戦ったテオポンポスの頃にエフォロイの制度が始まり、王権への制限は強化された。その一方で徐々にスパルタはペロポネソス半島での影響力を増やしていき、紀元前6世紀にはペロポネソス同盟を結成し、その盟主の座に就いた。

紀元前5世紀初頭の第二次以降のペルシア戦争でスパルタはアテナイと共にギリシア諸国を主導してペルシア帝国と戦った。有名な戦いはテルモピュライの戦いであり、スパルタを主力としたギリシア同盟軍は、数十倍はあるかというペルシア軍に対して奮戦した。この戦いで英雄的な討ち死にしたレオニダス1世は、その名をギリシア中に轟かせた。プラタイアの戦いでは、4万ほどのスパルタ軍が30万とも伝えられるペルシア軍を打ち破り、敗走させている。ペルシア戦争でスパルタの無敵さは世界でも通じるものであると証明し、陸上戦においてペルシア帝国の野望を何度も打ち砕いた。
ペロポネソス戦争とギリシャの覇権詳細は「ペロポネソス戦争」を参照

デロス同盟の盟主となったアテナイの強大化に伴ってアテナイとの関係は悪化し、紀元前460年から紀元前445年まで第一次ペロポネソス戦争と呼ばれる断続的な戦争状態に陥った。この戦いは30年間の休戦を条件に終わったが、その半分もいかないうちにペロポネソス戦争が勃発した。戦争はギリシア中を巻き込んだ大戦となったが、籠城戦を選択したアテナイに疫病が蔓延したこともあり、前404年にスパルタが勝利した。それによって、スパルタはギリシアの覇権を獲得した。

しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらしたことにより、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じた。その結果、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。

紀元前395年、スパルタに対してアテナイ、アルゴステバイらが挑戦し(コリントス戦争)、両陣営は一進一退の攻防を繰り広げたが、ペルシア王アルタクセルクセス2世の仲介のもと、アンタルキダスの和約(大王の和約とも)によって戦争は終わったが、スパルタは海上の覇権をアテナイに引き渡した。

その後、エパメイノンダスペロピダスに率いられたテバイとの対立が激化した。紀元前371年レウクトラの戦いで、エパメイノンダスに率いられたテバイ軍に、クレオンブロトス1世率いるスパルタ軍は敗れた。ここでスパルタはギリシアにおける覇権を失った。
ヘレニズム期からローマへ詳細は「セッラシアの戦い」および「ナビス戦争」を参照

紀元前4世紀中頃からピリッポス2世の元で強大化したマケドニア王国がギリシアでの影響力を強め、アテナイやテバイはそれに対抗していたが、スパルタはそれには加わらず、ついにマケドニア軍がカイロネイアの戦いでアテナイ・テバイ軍を撃破すると、マケドニアの主導でコリントス同盟が組織され、マケドニアのギリシアでの覇権が確立した。しかし、スパルタはこの同盟に加わらずに反マケドニアの態勢を貫き、紀元前331年にはアギス3世のもとでマケドニアに反乱を起こしたが鎮圧された(メガロポリスの戦い)。

紀元前3世紀以降、アギス4世クレオメネス3世マカーニダースナビスらが国政改革を実施して、アカイア同盟やマケドニア、共和政ローマと戦ったが、セッラシアの戦いマンティネイアの戦いナビス戦争におのおの敗北。この時期に名実共に独立国家としての地位を失った。

紀元前146年にローマはアカイア同盟をコリントスの戦いで破ったのを機に、スパルタを含むギリシア全土をローマの属州に組み込んだ(アカエア)。ただし、アテナイ並びにスパルタはかつての功績から一定の自治権を認められた。
その後「スパルティ」を参照

スパルタは395年西ゴート族アラリックの攻撃により破壊され、間もなくキリスト教都市として再建された。その後、6世紀に始まるスラヴ人の侵入と定住の中、再度スパルタ市は放棄され、市民の一部はシチリア島に移住、別の一団は半島南東端の沿岸にモネンヴァシア市を建設してスラヴ人の波を逃れることになった。10世紀にスラヴ人のギリシア正教文化への同化が完了してペロポニソスに於ける東ローマ帝国の支配(初期はセマ・エラスの一部、後にセマ・ペロポニソスとして独立)が再建されると、スパルタ市も再び府主教座都市ラケデモン(ラケデモニアとも。スパルタ人の自称ラケダイモンに由来)として再建され、その後長く安定した時代が続いた。13世紀、郊外のミストラスを首府とするモレアス専制公領が成立すると、ラケデモンは衰退し、小村が散在するだけとなった。19世紀のギリシャ独立戦争でミストラスが破壊されると、1834年にスパルタの故地にその名を冠した都市スパルティが建設された。
政治と社会生活スパルタの政治システムの模式図

国政においては2人の世襲のが並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。2王家はそれぞれアギス家英語: Agiad dynasty)とエウリュポン家英語: Eurypontid dynasty)といい、スパルタの統一過程で採られた妥協の遺制と思われる。ペルシア戦争テルモピュライの戦いで有名なレオニダス1世はアギス家の王である。長老会(ゲルーシア)(ギリシア語版、英語版)は、全市民参加の民会(アペラ)(ギリシア語版、英語版)によって兵役免除に達した60歳以上の中から選出された28人に、2人の王を加えた30人で構成され、その地位は終身であった。民会の決定に対して拒否権を有し、事実上の最高決定機関であった。また、民会によって30歳以上の市民の中から、毎年5人のエフォロイが選ばれて、王を含む全市民に対する監督権と司法権を保持した。

新生児は部族長老の面接を受け、虚弱者はタイゲトス山[1]の洞穴に遺棄された。男性は7歳で家庭を離れて共同生活を送り、12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ人としての教育(アゴゲー)を受けた。軍事訓練の一つとして、ヘイロタイから物を盗み殺害することも奨励された。こうして、彼らは質実剛健、忍耐と服従を身につけ、18歳で民会の全会一致により成人の仲間入りを果たした。こうした人材育成はスパルタ教育と言われる。

軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して、政治談義に加わった。共同食事は団結を醸成する場であり若者を教育する場であった。


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