元老院はレントゥルスとゲッリウスから軍権を剥奪して、新たに法務官に選出されたクラッススに反乱鎮圧を委ねた。紀元前71年、スパルタクスの反乱軍は一度はクラッススの軍団を撃破したが、やがてイタリア半島最南端のカラブリア地方の都市レギウム(現在のレッジョ・ディ・カラブリア)にまで追い込まれてしまう。過去2度の奴隷戦争の舞台となったシキリアへの奴隷反乱の拡大を企図して兵の派遣を目論み、キリキア海賊に渉りを付けてシキリアへの渡航契約が成立したものの、海賊はスパルタクスから贈物だけをせしめて、約束の日に姿を現すことはなかった[17]。
クラッススは包囲網を狭めており、陸峡にまたがる長城を建設して反乱軍の補給を絶ち、奴隷たちは飢えに苦しめられた。元老院がヒスパニアから帰還したポンペイウスの軍団を反乱鎮圧に差し向けることを決定すると、スパルタクスは長城を強行突破して脱出を図った。ガンニクスとカストゥスの別動隊がクラッススの軍団に捕捉殲滅されたが、スパルタクスは兵の向きを変えて追撃してきたローマ軍の騎兵集団を撃破する。だが、この勝利によって兵たちが思い上がり、ローマ軍と戦うことを指揮官たちに強制しようとした[23]。さらにスパルタクスの故郷のトラキアでの反ローマ闘争が鎮圧され、マケドニアからルクッルスの軍団がブルンディシウムに到着したと知ったスパルタクスはあらゆることに絶望し、クラッススの軍団との決戦を決めた[24]。
最期『スパルタクスの最期』(ヘルマン・フォーゲル画、1882年
現存する古典史料は、スパルタクスとクラッススとの最後の戦場の場所を明確にしておらず、その断片的な記述からルカニア、アプリアそしてブルッテイウム(現在のカラブリア)のいずれかの場所と推定され[25]、オロシウスの「スパルタクス軍はシラルス川の水源に陣営を張った」[26]との記述によってシラルス川の戦い(英語版)と呼ばれている。
プルタルコスの伝えるところによれば、スパルタクスは決戦を前に自らの馬を引き出させて斬り捨て、「勝てば馬は幾らでも手に入る。負ければもう必要ない」と言い放って歩兵として戦いに加わったという[23]。スパルタクスはクラッススをめがけて押し進んだが叶わず、小隊長2人を殺し、仲間たちが逃げ惑う中も戦場に踏みとどまり、多くのローマ兵に取り囲まれて遂に斃れた[23]。
アッピアヌスは「敵に包囲され槍で突かれて腿に傷を負い跪きながらも楯を前に掲げて戦い続けた」と伝えており、この戦場描写はポンペイ遺跡から発掘されたこの戦いを描いた壁画とも一致している[27]。フロルス(英語版)は「スパルタクスは将軍になったかのように勇敢に前線で戦った」と述べている[28]。スパルタクスの死体は発見できなかった[29]。
リウィウスによればこの戦いで反乱軍側は6万人が殺されたという[30]。クラッススは捕虜6千人をローマからカプアに至るアッピア街道沿いに十字架に磔にした[29]。第三次奴隷戦争の鎮圧後、古代ローマ時代に2度と大規模な奴隷による反乱が起こることはなかった。 小プリニウスは、ローマ社会の退廃を嘆く文章の中で、スパルタクスが軍中の金銀の私有を禁じた話を想起して「逃亡奴隷にして、その心情の偉大さに顔色なからしむる」と述べた[31]。フロンティヌスは著作の『戦術論
評価
スパルタクスは古代ローマ人からは「ローマの敵」と見なされたため、悪名が語り継がれ[32]、中世には忘却されたが[33]、18世紀の啓蒙主義時代以降に再評価され[34]、とりわけカール・マルクスをはじめとする社会主義者・共産主義者から高く評価されるようになり、抑圧からの解放を求める労働者階級の偶像となった[35][36]。スパルタクスの歴史的評価の詳細に関しては第三次奴隷戦争#評価を参照のこと。