スバス・チャンドラ・ボース
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カルカッタ大学で学士号を取得し、1919年に、両親の希望でイギリスケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジ大学院留学した。大学院では近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究し、クレメンス・フォン・メッテルニヒの妥協無き理想主義に感銘を受けたと回想している[1]
独立運動家

1920年にはインド高等文官試験を受験した。ボース自身の回想では試験には合格したものの、このままではイギリス植民地支配の傀儡となるだけだと判断して資格を返上した[1]。ただし、二次試験の乗馬試験で不合格となったという異説も存在する[1]。いずれにせよこの頃からボースはインド独立運動に参加するようになっていった。

1921年マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。ボース自身は「ガンディーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」という信念を抱いており[1]、ガンディーの非暴力主義には強く反対していた[1]オーストリアを訪問したボース(中/1937年マハトマ・ガンディー(左)とボース(1938年)

ボースは、この頃イタリアで台頭して、イギリスのウィンストン・チャーチルをはじめ世界中で喝采と注目を浴びていたファシズムに魅了され、1926年には「ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現する」べきであると主張した[2]。そのためイギリス当局は彼を明白なファシストと見なしていた[2]。ボースは、議会内で反ファシストから圧力を受けると自身の見解を穏健化させ、ファシズムではなくトルコケマル・アタテュルクによる権威主義に関心を向けるようになった[2]

ボースは1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも逮捕・投獄され、ビルママンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出されたが、ボースの独立志向とその影響力を危惧した英印植民地政府の手により免職された。

その後も即時独立を求めるインド国民会議派の左派、急進派として活躍し、勢力を伸ばした。ガンディーは組織の分裂を心配し、1938年度の国民会議派議長に推薦した[3]。ボースはインド独自の社会主義「サーミヤワダ」を提唱し、若年層や農民、貧困層の支持を集めた。この成果に自信を持ったボースは翌年の国民会議派議長に立候補した。議長はガンディーの指名によって決定されることが慣例になっていたが、1年間の議長職だけでは満足しなかったボースは翌年以降も議長職に留まろうと考え、党内初の議長選挙を実施した[4]。この選挙でボースは、ガンディーの推薦するボガラージュ・パタビ・シタラマヤ(英語版)に大差をつけて勝利した。

しかしこの行為はガンディーの支持を失わせることになり、ガンディーを支持する国民会議派の多数派からの支持も失わせることになった[3]。ボースの動きを危険視した党幹部は彼に不信任を突きつけ[4]、議長辞任を余儀なくされた。


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