スノッリ・ストゥルルソン
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1235年、ホーコン4世はローマ巡礼の帰路ニダロスに立ち寄ったスノッリの次兄シグヴァトの息子ストゥルラに、総督の地位と引き換えにアイスランドをノルウェーに臣従させるよう働きかけ、ストゥルラはこれに応じた[13][15]。ストゥルラが巡礼でアイスランドに不在だったとき、スノッリの二男ウレキヤがストゥルラの本拠地にあたるアイスランド北東部で争いを起こしており、ストゥルラはこれを口実にスノッリを殺害しようと彼に挑んだ(これに先立ちスノッリは長男ヨーンの死に絡み娘婿のギツルからも離反されていた[16])。スノッリは和解を申し入れたがストゥルラは拒否し、ウレキヤを捕らえるとホーコン王の元へ送った。スノッリは有力な首長ソルレイブや長兄の息子オーラヴと共に挙兵しストゥルラと戦おうとした。しかし彼は交戦前に逡巡して戦場を離脱し、戦ったソルレイブらは惨敗して捕らえられた。スノッリは投降し1237年、彼らと共にノルウェーへと送られた[17]

そのころのスクーリ公はホーコン4世の権力の拡大に伴い、かつての勢いを失っていた。王の一臣下に甘んじるのを不服とした彼は自ら王として立つ逆転の機会を狙っていた。ノルウェーでスノッリはスクーリ公の息子の屋敷に身を寄せたが、スクーリとホーコン4世との確執に際しスクーリ側と看做された。1238年8月21日、アイスランド本国でホーコン4世の息のかかった次兄シグヴァトと甥ストゥルラが長女の婿コルベイン(コルヴェンドヌ)・アルドノルソンと二女の婿ギツルとの戦いで戦死した[18][19]。スノッリはこれを自分の地位を回復する好機と捉えアイスランドへ帰国しようと考えた。ホーコン4世は彼の出国を許さなかったが、スクーリ公はスノッリの帰国に賛成し彼に船を与えた[20]。出航直前にも王から渡航を禁ずる使者が来たが、スノッリはそれを押して出帆し王の怒りを買うことになった[19]

スクーリ公は自らノルウェー王を僭称し挙兵したものの、勝敗を分けるうちに戦死した。ホーコン4世はギツルへ宛ててスノッリを捕らえてノルウェーへ連行すること、場合によっては抹殺しても構わないことを命じる密書を送った[21]。ギツルはシグヴァト父子の件で和解したいと偽り、スノッリをおびき寄せ殺害しようとしたが失敗した[22]。折しもスノッリと共同で財産を管理していた妻ハルベイグが急逝し、彼女の遺児との間に財産相続を巡り争いが起こった。遺児らは叔父にあたるギツルに不服を訴え、ギツルはこれを機にスノッリを完全に打倒しようとコルベインと彼の屋敷を襲撃する計画を立てた。ハルベイグの遺児でスノッリに恩義を感じていたオルムはこれに加わるのを拒否し、警告の手紙をスノッリへ送ったが、スノッリは気に留めなかった。その理由にオルムの書いたルーン文字に誤記があり、スノッリが誤読がしたともいわれている[23]

9月22日夜、ギツルはレイクホルトの屋敷を襲撃した。就寝中だったスノッリは地下室に隠れたが見つかって暗殺された。この知らせを受けたホーコン4世は「命令に従っていれば重い罰は与えなかった」と彼の死を惜しんだといわれている[24]。彼の死後、ギツルはアイスランドの提督に任命され、自分の勢力下にある領地の3分の2を王に献上した。アイスランドはスノッリの死から21年後の1262年ノルウェーの支配下に置かれ始め、1264年には完全に属国となった[25]
著作1899年に出版された『ヘイムスクリングラ』の挿絵より。

今日に残るスノッリの著作は少ないが、その中でも北欧神話を紹介している1220年の著作『エッダ』と、歴史書として高く評価されている『ヘイムスクリングラ』が、スノッリの代表作である。また『エギルのサガ』も、妻ヘルディースの生家の祖先にあたるエギル・スカラグリムソンの生涯を描いたものであり、筆致からスノッリの作ではないかといわれている[26][27]
脚注^ スノッリの生涯を描いた『ストゥルルンガ・サガ』(en) の著者ストゥルラ・ソールザルソン(en) は同名の別人。こちらはスノッリの長兄ソールズルの息子である。
^ a b 山室、p.132。


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