ストーン・ローゼズ
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前後してシルヴァートーンとレコード契約を結び、アルバムの制作に着手する。
ファースト・アルバムとその成功

1989年の初頭にかけて、ジョン・レッキーをプロデューサーに迎えレコーディングを行う。1989年2月にはアルバムに先駆けてシングル「メイド・オブ・ストーン」をリリース。当初の反響は小さかったが、3月11日にNME誌のシングル・オブ・ザ・ウィークに選ばれる。5月には満を持して1stアルバム『ザ・ストーン・ローゼズ』を発表。全英アルバムチャート初登場47位を記録し、最高32位まで上昇。同年7月、シングル・カットされた「シー・バングス・ザ・ドラムス」が全英インディーチャート1位を記録する頃にはプレスも彼らの存在を無視できなくなり、ストーン・ローゼズの名は急速に英国全土へ名が広まっていった。特にBBCの番組に出演した際、演奏途中で停電が起きたことに怒ったイアンが司会に向かって繰り返し「アマチュア!」と罵ったという事件は、良くも悪くもバンドの知名度上昇に一役買った。秋に入ると英国外でも短いツアーを行い、10月の初来日公演では東京など4会場でライヴを行った。

11月、シングル「フールズ・ゴールド/ホワット・ザ・ワールド・イズ・ウェイティング・フォー」をリリース。全英シングルチャート最高8位を記録し、初のチャートトップ10入りを果たす。年末の特集記事では多くの音楽雑誌がローゼズをベスト・ニューカマーに選出。NME誌だけでもバンド・オブ・ザ・イヤー、ベスト・ニュー・バンド、シングル・オブ・ザ・イヤー(「フールズ・ゴールド」)、アルバム・オブ・ザ・イヤー(『ザ・ストーン・ローゼズ』)に選ばれた[10]

1990年1月、元所属レーベルのFM Revolverがバンドの意に反してシングル「サリー・シナモン」を再リリースしてミュージック・ビデオを制作したことに抗議。オフィスに乱入したローゼズとそのマネージャーは辺りに青と白のペンキをぶちまけた。翌日メンバーは逮捕され、3月に器物損壊罪で有罪判決を受けた。5月27日にはスパイク・アイランドにて後に伝説となる野外ライヴを行う[11]。約2万7千人の観客を動員したこのライヴは「バギー世代のウッドストック」と称され、ローゼズのキャリアのピークとなった[12]。6月、シングル「ワン・ラヴ」をリリースし、最高4位を記録した。

同じ頃、所属レーベルのシルヴァートーンにおける待遇に不満を持ったバンドは移籍を希望するが、レーベル側は契約を盾にこれを拒否。問題は法廷闘争に発展するが、1991年5月に契約の解除が認められ、ローゼズは新たにゲフィンと契約した。
セカンドアルバムから解散へ 

泥沼化していた裁判に加え、イアンとジョンが父親になり、バンドに近しい人物が相次いで亡くなるなど周辺環境に大きな変化が生じたこともあり、ローゼズは長きに渡る沈黙に入る。1stアルバムからは5年半、最後のライヴからは4年半が経過し、英国の音楽シーンにおけるブームもマッドチェスターからブリットポップへと移り変わっていた。そんな中で、1994年12月に2ndアルバム『セカンド・カミング』が発表される。ジョン主導で制作され、レッド・ツェッペリンからの影響が色濃く伺われる本作は、全英4位、全米チャート47位を記録し、イギリスではプラチナムに認定された。また、アルバム発売にあたり、ホームレス救済雑誌『ビッグイシュー』に独占インタヴューが掲載された。シングル「ラヴ・スプレッズ」も2位を記録し一定のセールスを上げる一方で、音楽性が急激に変わった本作への評価は芳しくなく、一部のメディアからは酷評された。

1995年の3月にレニが突然バンドを脱退する。脱退理由の正式な説明はなされないまま、後任にロビー・マディックスが加入。4月にはノルウェーオスロでのライヴを皮切りにヨーロッパとアメリカを回るツアーが開始された。しかし、その途中の6月にジョンがサンフランシスコマウンテンバイクを運転中に鎖骨骨折。直後に予定されていた日本ツアーなどが延期になり、グラストンベリー・フェスティバルへの出演がキャンセルされた。12月には1989年以来となる全英ツアーが行われ、チケットは即完売した。

1996年4月1日、ジョンが脱退。彼が残した声明で、バンドを去ることは「過去数年間にしだいに生じていった人間関係と音楽性の溝から避けられない結果だった」[13]と説明されている。後任にはエイジアシンプリー・レッドセッション・ギタリストを務めたアジズ・イブラヒムが迎えられ、夏に予定される複数のロック・フェスティバルに向けて準備が始められた。

8月25日には、レディング・フェスティバルの大トリに出演[14]。しかし、終始音を外したイアンのボーカルや女性バックコーラス兼ダンサー陣を加えたステージは観客に受け入れられず、ブーイングや物が飛び交う事態になった。加えてプレスも一斉にローゼズのパフォーマンスを批判した[15]。これを受け、イアンとマニは10月に解散を発表、ストーン・ローゼズの歴史に終止符を打った。
解散後の動向

ヴォーカルのイアン・ブラウンはソロ活動を開始し、1998年にソロアルバム『アンフィニッシュド・モンキー・ビジネス』でデビュー。2011年までに6枚のオリジナル・アルバムと1枚のベスト・アルバムをリリースした。ギタリストのジョン・スクワイアはザ・シーホーセズを結成。1997年のデビューアルバムは一定の成功を収めるもメンバーとの音楽性の相違により1999年に解散。2002年にソロデビューし2枚のアルバムをリリースするが、2000年代半ばからは画家としての活動が中心になっていた。

マニは、1996年に元々親交があったプライマル・スクリームにベーシストとして加入。『バニシング・ポイント』以降のアルバムでプレイした。またDJとしても活動し何度か来日もしている[16]。ドラムスのレニは自らがフロントマンになり「The Rub」を結成。ヴォーカルとリードギターを務めたが、作品を発表することなく解散した。

時折り再結成の噂が浮上したが、元メンバーはそのたびにこれを否定。イアン・ブラウンは2004年のライヴでストーン・ローゼズの楽曲を披露したが、再結成の可能性は明確に否定した[17]2005年には巨額のオファーも蹴っている[18]。また、ジョン・スクワイアも2009年にアート作品によって再結成の意志がないことを再度表明した[19]。その一方で、マニは2008年末のインタビューで再結成への関心をみせていた[20]。また、レニも2005年にマニに誘われてイアン・ブラウンのライヴを観に行った際に、四人がまた一緒に活動する事は「絶対にないとはいえない話だけど、それは今年じゃない」と述べていた[21]
再結成?2度目の解散

2011年春、マニの母親の葬儀の際にイアン・ブラウンとジョン・スクワイアが15年ぶりに会話を交わす[22]。これまで絶縁状態だった2人が再会したことで一気に再結成の機運が高まった。

2011年10月18日、イアン、ジョン、レニ、マニが記者会見を開き、再結成を発表[23]。世界ツアーや新しいアルバムの制作も計画されていることがアナウンスされた[24]。翌2012年6月29、30日、7月1日にマンチェスター北にあるヒートンパークにて再結成ライヴを行い、3日間で22万人を動員。同年7月27日にはフジロック・フェスティバル2012のヘッドライナーとして出演した[25]。一連の再結成ツアーは成功を収め、1200万ポンドを稼いだと報じられた[26]


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