1948年、広島市内のストリップ劇場が摘発を受けた。劇場側が猥褻ではなく芸術であると主張して法廷で争われたが、1950年、最高裁は女性が下半身を露出した状態で約1分半ポーズをとった行為などについて公然わいせつ罪にあたるとの判断を示した[27]。
1950年代、フランス座やロック座などでは幕間に、佐山俊二、長門勇、谷幹一、関敬六、戸塚睦夫、海野かつを、渥美清、東八郎、由利徹、八波むと志、財津一郎、三波伸介、伊東四朗、石井均、萩本欽一、坂上二郎らの喜劇人がコントを披露した。その後は1970年代のビートたけしや、1980年代のコント赤信号(渋谷道頓堀劇場)から浅草キッド[28](フランス座)の頃まで、衰退しながら続いた。またこの頃、ストリップダンサーはバタフライといわれる一種の前張りを股間に付けていた(後に出るOS系に比しTS系と呼ばれる)。
1965年8月、警察庁は全国のストリップ劇場の一斉取り締まりを実施。全国313軒の劇場のうち90軒が何らかの理由で摘発された[29]。
1970年代頃から、関西地区を中心に全裸になって(全スト)女性器を見せる特出しショー[30]の一条さゆりらが人気を博した(いわゆるOS系)。一条は摘発されたが、次第に全ストが一般的になった。また、舞台で女性出演者同士の絡む様を見せる「レスビアンショー」(レズではない)、出演者のカップルが本番行為を行う「白黒ショー」、同様に出演者のカップルがSMプレイを行う「残酷ショー」、お客が踊り子と舞台上で性交をする「マナ板ショー」(後述)が全盛になった。徐々にTS系をどぎついOS系が凌駕していく。その頃には「ヌード・インテリジェンス」といった専門雑誌までが登場した。ショーの内容は更にエスカレートし、ポニーと踊り子による「獣姦ショー」も登場したが、1985年の風営法の施行後は警察による取締り強化のためストリップ劇場が激減した。
また1970年代のストリップとコメディとの関わりとしては、人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』で、ドリフターズの加藤茶による、ストリップをモチーフにとったギャグ「チョットだけよ」(タブー _(ラテン音楽)も参照のこと)が一世を風靡したことが特筆される。が、意味も解らない低年齢の子供からも盛んにマネをされるほどの大流行をし、低俗番組として指弾の対象となる。
1980年代は、アイドルストリッパーとして人気を博した美加マドカ、本番は行わず「オナニーショー」で有名になった清水ひとみ、後に「伝説の踊り子」と呼ばれた影山莉菜など、若く容姿に恵まれたアイドル・ダンサーが活躍した。またこの頃は、社会的にまだ話題に取り上げることができた時期で、レコードとして笑福亭鶴光のうぐいすだにミュージックホール(オールナイトニッポンにて深夜に登場)やラジオ大沢悠里ののんびりワイドで看板のお色気大賞コーナーがあり、ストリップの話題がお茶の間に流れた。
また、その頃から(1990年頃以降は特に)観客の人気を集めるためアダルトビデオに出演していた女優が舞台に上がることも多くなり、導入当初は会場前に長蛇の列が出来、入替制にするなどの人気が上がったが、集客は逓減し続け、2000年代に入る頃には全盛期と比べると見る影もない状況となった。
近年では他の性的娯楽の選択肢が増えたこともあり、入場者数が減少し、経営が成り立たず閉鎖を余儀なくされる劇場も多い。改正風俗営業法の規制下に入り、屋台のように一旦営業が取り止めになると新規の営業許可が出ない事となった。閉鎖されていく劇場がある一方で一定程度の客数を確保している劇場も都市部を中心として複数存在するが、こうした劇場もポラロイドショーによる収入が劇場経営を支えている側面が強くなっている。また、女性客にアピールする目的で女性・カップルの優先席を設けるなどの試みを行う劇場もある[31]。関西系のどぎつい出し物の台頭という変遷、単なる性風俗と化した様相のストリップに対し、その揺り戻しともいえるTS系の台頭が相対的に進むが、絶対的な劣勢を跳ね返す程にはなっていない。2000年代には、若林美保や牧瀬茜らのストリッパーが活躍した。
2018年(平成30年)10月2日にはNHK総合テレビでストリップがテーマの「ノーナレ」(裸に泣く)が放送されるなど[32]、演じ手と同性である女性からの人気が高まりつつある[33]。