ストリップ_(性風俗)
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彼女のショーでもっとも有名だったのは、宝石がいっぱいについたブラジャーや体を飾る宝飾品を見せるシーンだった[6]

もうひとつのランドマークとなった出し物は、1907年にムーランルージュで行なわれたものだった。ジェルメーヌ・アイモス(Germaine Aymos)と呼ばれた女優は、わずか3つの小さな貝殻だけを身に着けていた。1930年代、歌手としても知られるジョセフィン・ベーカーは、フォリー劇場やその他タバリン通りの劇場で演じられた「danse sauvage」の中で、セミヌードでダンスを踊った。これらのショウは、洗練された振り付けや豪華な衣装が特徴だった。

1960年代にはいると、パリのクレイジーホースなどで全裸のショーが行われるようになった[7]。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

伝説的ダンサーであるマタ・ハリ

ジョセフィン・ベーカー(1927年)

アメリカ合衆国におけるストリップ史

アメリカ合衆国のストリップは、移動式カーニバルや初期のバーレスクの劇場ではじまった。初期の代表的なストリッパーにはジプシー・ローズ・リー(Gypsy Rose Lee 1911/01/08 - 1970/04/26)やサリー・ランド(Sally Rand 1904/04/03 - 1979/08/31)がいる。空中ブランコ芸人だったシャーミオン(Charmion 1875/07/18 - 1949/02/06)は、1896年という早い時期に、空中ブランコの上で服を脱いでいくという見世物を行なった。その映像は、1901年にトマス・エジソンによって撮影された『Trapeze Disrobing Act[8]』という作品に残されている。

現代的なストリップを含むアメリカン・バーレスクのもうひとつの一里塚と言えるのは、1925年4月に演じられた、伝説的な「ミンスキーのバーレスク」である[9]。それはミンスキーブラザースによってニューヨーク42番街の劇場で上演された。このバーレスク劇場でのストリップの上演は、何度か警察沙汰になった後、当該劇場「グラインドハウス」の品位を低下させたとして、1937年に廃止された[10]

1960年代になって、ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスとして復活した。サンフランシスコ・ノースビーチにあったコンドルナイトクラブのダンサー、キャロル・ドーダ(Carol Doda 1937/08/29 -)が「最初にブラジャーを脱ぎ捨てたダンサー」として歴史に名を残している[11]。コンドルナイトクラブは1964年にオープンしたが、ドーダのトップレスダンスショーは同年6月19日の夕刻にはじまったとされている[12][12][13]。コンドルナイトクラブのショーは、1969年9月3日にランジェリーも脱ぎ捨てた。そして、この「全裸スタイル」は、アメリカ合衆国におけるストリップの主流となっていった[14]

サンフランシスコには、その筋では有名な「Mitchell Brothers O'Farrell Theatre」も存在していた。この劇場は、ラップダンス(英語版)をストリップに導入した先駆者であり、この流れは合衆国中に、さらには世界中に、広がっていった[15]

ジプシー・ローズ・リー

コンドルナイトクラブ

アメリカのストリッパー

イギリスにおけるストリップ史ウィンドミル劇場

イギリスでは、ローラ・ヘンダースン(Laura Henderson 1864 - 1944/11/29)がロンドンのウィンドミル劇場でヌードショーをはじめたが、英国の法律は1930年代に裸の女性が動くことを禁じるに至った。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように静止することになった[16]。このウィンドミル劇場の女たちは、ロンドンや周辺の劇場にも遠征した。彼女たちは、時としてロープを使って回転し体中をぐるっと見せることもあったが、とりあえずは自らの意思で動いてはいないという形式を整えることで、禁令をかいくぐり続けた。

もうひとつの禁令突破法として考えられたのは、扇ダンスだった。1942年、フィリス・ディキシー(Phyllis Dixey 1914/2/10 - 1964/6/2)は、会社を設立し、ロンドンにホワイトホール劇場を開いて、「ホワイトホール・フォリーズ」と呼ばれるセクシーな時事風刺劇をはじめた。

1950年代まで、ストリップの巡回興行は、さびれたミュージックホールにとって、観客を集められる出し物として行われていた。ポール・レイモンドは、彼の巡回鉱業を1951年にはじめているが、その後ソーホーでドーリア式ダンスを学び、1958年にはプライベートな会員制倶楽部「レイモンド・レヴューバー」を開いた。これは、イギリス初のストリップクラブであった。1960年代に法律が改訂されたことから、ソーホーではストリップクラブのブームが巻き起こり、また全裸でのダンスも一般化した[17]。会場としてはパブがしばしば使われた。中でもパブが集中するショラディッチ地区のイーストエンドに多く見られた。このパブ・ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスの流れを汲んだものと考えられている[18]。これらのパブはしばしば地域警察などからのいやがらせを受けたものの、それらのうちいくつかは現代も生き残っている。これらのパブ・ストリップに特徴的な習慣として、ストリッパー自身が演じる前にビールジョッキを持って客席を回り観客からチップを集めるというものを挙げることができる。この習慣は、1970年代に、トップレス・ゴーゴーダンサーが「全裸が見たければ金を出しな」という趣旨ではじめたものであると考えられている。また、更に猥褻でもろ出しの「プライベート・ダンス」と呼ばれるものをパブ内の個室で演じるということも多くのパブで行なわれている[19]
日本におけるストリップ史

神話世界でのアメノウズメ天岩戸の前での踊りが、日本のストリップの元祖という話が決まって出るほど馴染みが深いものであり、日本人は元来そのようなものに一定の理解があった。前史として、浅草のレビュー「カジノ・フォーリー」で「金曜日に踊り子がズロースを落とす」(つまり中身が見えてしまう)という噂によって大入りを続けたことがある[20][21][22]

一般的な形でのストリップは1947年1月15日、東京都新宿角筈(現新宿三丁目)の帝都座5階演芸場で、本邦初のヌードショー「ヴィーナスの誕生」という催物として始まった。歌や踊り、コントなどが演じられる全27景のバラエティショーの一景として演じられ、ヌードを見せるのは長くて30秒程度だった[23]。この時のモデルは甲斐美晴。企画演出は秦豊吉。スタッフには東郷青児もいた[23]。乳房は露出していたが、陰部は扇で隠されていた[24]。モデルが動けば風俗擾乱として摘発する旨がGHQから寄せられていたため、実際の女性が西欧の裸体画に扮し、踊りはなくじっとしているものであったので「額縁ショー」と呼ばれていた。それでも大変なショックで、大きな反響を呼び、殺到した客が5階の階段を埋め尽くして、地上に長い列を為したという[25]。その後、規制は緩和され、変化を付けるため、行水ショーなど様々に工夫された。1948年3月、台東区浅草常盤座にて初めて踊りを取り入れた本格的なストリップショーが開催された[26]その後、全国的な広がりを見せ、大衆娯楽へとなった。特に松竹東劇バーレスク・ルームや浅草公園劇場「パークバーレスク」。ジプシー・ローズ)、東宝日劇ミュージックホール)といった日本の二大興行主や東京吉本も一時参入したのが特筆される。


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