「「哲学は人間が自分の外部にある全てのものを手に入れることを保証しないが、代わりにその適切な主題の中に眠っているものを手に入れるであろう。大工の使う素材は木材や彫刻用青銅であるから、生き方の素材は各人の生である。」」
—エピクテトス[8]
ストア主義者それぞれの考え方は互いに密接に関係している。
ストア派の思想については現存資料が後期に偏っているため、前期・中期の思想は明確にはわからない。したがっていくつかの断片的資料や、後期でも最も前期に近いとされるキケロ、エピクテトスの思想(ただしエピクテトス自身は著作を残さなかったことから彼の思想は弟子のアッリアノスの記録による)から推測するしかない。
ストア派は世界の統一的な説明を形式論理学、非二元論的
自然学、自然主義的倫理学によって構築した。中でも倫理学が人間の知の主な関心であると彼らは強調したが、後代の哲学者たちはストア派の論理学理論により関心を示した。ストア派は破壊的な衝動に打ち勝つ手段として自制心や忍耐力を鍛えることを説いた。明朗で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解することができると彼らは考えた。ストア派の最大の特徴は個人の道徳的・倫理的幸福を追求することにある。「『徳』は自然と一致した『意志』にこそ存する[9]」 この思想は対人関係のような分野にも適用される; 「憤怒、羨望、嫉妬から解放されること[10]」と奴隷をも「全ての人は等しく自然の産物なのだから他の人と対等だ[11]」と認めること。ストア主義は、非道な権力に抗する際や、災難の続く事態に対峙する際の慰めとなった。
ストア倫理学では決定論が支持される。ストア的な徳を欠いた人間に関して、邪悪な人間は「車にくくり付けられた犬のようなもので、車の進む方向へどこにでも行かされる[9]」とクレアンテスは考えた。対照的に、ストア派の徳は人間の意志を世界と一致するものへと修正し、エピクテトスの言うところによれば、「病むときも幸福で、危機の内に在るときも幸福で、死を迎える時にも幸福で、追放されたときにも幸福で、恥辱を受けた時にも幸福[10]」であらしめるために、「完全に自立的な」個人の意志と同時に「厳密に決定論的な統一体」である世界を断定する。この思想は後に「古典的汎神論」と呼ばれ(、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザに採用され)た[12]。
ヘレニズム世界・ローマ帝国においてストア派は知的エリート階層の主流派の哲学となり[13]、ギルバート・マーレイの言う所によれば、「アレクサンドロスの後継者のほぼ全員が自らをストア主義者だと述べた[14]」 ストア派の起源はエピクロス派と同時期ではあるが、より長い歴史を持ち、その教説における恒常性はより少なかった。ストア主義は犬儒学派の教説の中で最良のものを受け継ぎ、より完備して円熟した哲学となった。
歴史アンティステネス、キュニコス学派の創始者
紀元前301年の初めごろ、キティオンのゼノンがストア・ポイキレ(すなわち彩飾柱廊)で哲学を説き、ここからその名声を得た[15]。エピクロス派のような他の学派とは異なり、ゼノンはアテナイのアゴラ(中央広場)を見晴らすコロネードのような公共的な場所で哲学を説くことを選んだ。
ゼノンの思想はソクラテスの弟子アンティステネスを始祖とするキュニコス学派の思想から発展した。ゼノンの弟子のうち最も影響力があったのはクリュシッポスで、彼は今日ストア主義と呼ばれているものを成型した。後のローマ時代のストア主義は、何者によっても直接制御されていない世界と調和する生き方を喧伝した。
研究者は大抵ストア派の歴史を三相に分ける:
前期ストア派、ゼノンによる学派の創設からアンティパトロスまで。
中期ストア派パナイティオスやポセイドニオスを含む。
後期ストア派、ムソニウス・ルフス、ルキウス・アンナエウス・セネカ、エピクテトス、そしてマルクス・アウレリウス・アントニヌスらを含む。