ステファン・ヨハンソン
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ヨハンソンは終盤戦コンスタントにポイントを稼ぎドライバーズ・ランキング5位とキャリアベストを更新したが、チームはシーズン終盤にベネトンでF1初優勝を挙げ台頭したゲルハルト・ベルガーへ正式オファーを出すことを決定しており[10]、ヨハンソンはチームを去ることになった。

2年間名門に在籍したが、戦闘力不足に苦しむチームの低迷期にあたり勝ちに恵まれず、2年間で2回の2位を含む6回の表彰台と言う結果に終わった。またエンツォ・フェラーリが女性をピットに入れるのを好まなかったため、それまではレースに同行していたフィアンセをサーキットに連れて来なくなった[11]
プロストのNo.2マクラーレンMP4/3

1987年にはマクラーレンチームへ移籍、アラン・プロストのNo.2として1年間在籍。開幕戦ブラジルGPで3位、第3戦ベルギーでは優勝したプロストに次ぐ2位でフィニッシュし1-2フィニッシュと幸先の良いシーズンスタートを切る。しかしこの年はホンダエンジンを搭載するウィリアムズとロータス、フェラーリが高い戦闘力を持っていた上に、チームメイトのプロストに予選・決勝とも遅れを取ったが、2位表彰台を2回獲得するなどトータル30ポイントでランキング6位(プロストは3勝、46ポイント、ランキング4位)を獲得した。また、第10戦オーストリアGPの予選日、山間部にあるエステルライヒリンクのコース上に、森の中から突如野生のシカが入って来たため、240km/hで走行していたヨハンソンは避けきれず左フロント部から衝突、反動でコース脇にはじき出されマシンが大破するクラッシュが発生しトピックとして各国に報道された[12]。幸いMP4/3コクピット脇のカーボンモノコックが割れた際に衝撃を吸収したため、負傷は首・肩の打撲と肋骨の骨折で収まったが、そのレースキャリアでもっと大きいクラッシュとなった。

プロストとは非常に仲良くなり、35年以上経た2020年代でも互いのSNS上で交流するほどであるが[注釈 6]、チームとして苦戦の年で、翌年へ向けチームは強力なホンダエンジンを獲得[13]、そのホンダからのプッシュもあり翌年のシートはアイルトン・セナに奪われてしまった。セナがマクラーレンに来る話が表面化してからは、ヨハンソンがウィリアムズへ移籍するとの報道もあったが、実際にウィリアムズのシートを射止めたのはリカルド・パトレーゼであった。なお、ロン・デニスはヨハンソンの能力自体はF3時代からの付き合いでもあり認めていた[注釈 7]

ヨハンソンは、チームメイトとなった事でプロストのドライバーとしての能力に非常に感銘を受け、雑誌『Racing On』のインタビューにて「プロストは凄いよ、どの部分がどう凄いのか聞かれても困る。全部凄いんだから。」と答えており[8]、1993年のプロスト引退時にも「マシンをセッティングする時、エンジニアはアランの言っていることを聞いてその通りにセットするだけでいいんだ。そしてすべて彼の言ったとおりのラップタイムになる。その光景はそばで見ていてショックを受けたし、とても学ぶことが多かった。僕のあとで加入したセナも同じようにアランから学んだだろうと確信している」と証言している[14]。それまでは「レーサーという職業である以上、僕の最終的な仕事はワールド・チャンピオンを取ることだろうね(1984年)[1]」「今年はグランプリをいくつか獲りたいと思っている(1986年)[15]」など強気の発言も多かったが、F2時代から得意としていたリスクを冒してまでの猛烈な予選タイムアタックは以後影を潜めた。
リジェでの苦闘

1988年はフランスのリジェに移籍。チームメイトは皮肉にもかつてフェラーリのシートを「奪う」形になったアルヌーであったが、リジェでの二人の関係は悪いものではなく情報の共有もされた。チームはジタンたばこと国営くじのスポンサーからの潤沢な予算を持つ上に、ノンターボエンジンとしてはそれなりの性能を持つジャッドエンジンを搭載するものの、ミッシェル・テツがデザインしたJS31は、V8エンジンの前後をはさむように燃料タンクを2分割配置するという特殊な燃料タンクの位置からバランスを決定的に欠いており、チームボスであるギ・リジェがテツに対し「こんなクソ車つくりやがって」と公に非難する出来であった[16]。シーズン途中で数度の大幅改修が施されたものの、最終戦までJS31に戦闘力は全く無く、「元フェラーリコンビ」2人共にノーポイントに終わったばかりか、しばしば予選落ちを喫するなど精彩を欠いた。

この年を境にヨハンソンはF1では十分な体制のチーム・マシンを得る事は無くなり、F1関係者からも「F1優勝経験が無い割にギャラが高い」と言う意見もあるなど[17]「下り坂」を転げていくこととなる。
下位チームからのエントリー

1989年は、F3000からF1へステップアップしてきた新規参入チーム、オニクスへ移籍。アラン・ジェンキンスがデザインしたORE-1はDFRエンジンながらシャシー素性は良く、第7戦フランスGPで決勝5位に食い込みチームのF1初ポイントを獲得。第13戦ポルトガルGPでは予備予選組としては驚異的な3位表彰台を獲得し、これがF1最後の表彰台となった。この年は予備予選さえ通過できれば予選・決勝とも中堅としてまずまずの速さを持ったチームだったが、その予備予選を通過するのが狭き門であり、たびたび予選不通過があった。

1990年、2月に第一子が誕生しオニクスのNo.1として期するものがあったが[18]、前年のメインスポンサーはポルシェエンジン獲得に失敗したことでスポンサーから撤退してしまい、予算を失う。チームオーナーがモンテヴェルディを代表とするスイス人グループに変わり[19]、開発予算がないためにマシンの相対的性能が落ちたこともあり開幕2戦で予選落ちを喫するなど、ORE1は前年時折り見せた速さを失っていた。チームはスイス人で前年ユーロブルンで走っており、さらにスポンサーを持ちこむことのできるグレガー・フォイテクをF1に乗せるためにヨハンソンとの契約を解除、シートを失う[20]フットワークFA12

1991年には全日本F3000選手権に参戦する方向で内定していたが、開幕直前になってフランスの小規模チームであるAGSのシートを得る[注釈 8]が、JH25の戦闘力も低く開幕2レース予選落ちでシートを失い、第5戦カナダGPからアレックス・カフィ負傷の代役としてアロウズ(フットワーク)のシートを獲得。5年ぶりにアルボレートとコンビを組んだが、FA12はシーズン中にエンジンがポルシェV12からコスワースV8に変更されるなど重量バランスが欠如していたこともあり4戦中3戦で予選不通過となり、イギリスGPでの予選不通過を最後にカフィが戦列復帰するとヨハンソンの代役参戦は終了した。その後、ベルトラン・ガショー解雇で空いたジョーダンの候補に名前が挙がるも、シートはテストを受けた新人ミハエル・シューマッハのものとなり、これ以後F1でのシートを得ることは無く、1992年からはアメリカ・CARTシリーズへと活動の舞台を移した。

F3からF2時代は一発の速さが魅力だがレース振りの荒いドライバーと評され、モナコF3では主催者から厳重注意を受けたこともあったが、F1にステップアップ後は逆にレースでの安定感はあるものの、予選で一発の速さに欠ける場面が見受けられるようになった。エンツォ・フェラーリもこの予選順位が悪い点が不満だったと述べ、ヨハンソンに替えてゲルハルト・ベルガーを獲得する一因になった[21]。また人柄が気さくな好漢である事からパドックの人気者ではあったが、その反面、勝利を追求するエゴイスティックな部分が無かったこと、そしていずれのチームも低迷期に当たったことが災いし、惜しいところで優勝を逃す事数回、結局優勝を経験できずF1では大成できなかった。
F1以後ヨースト・ポルシェWSC95

F1以後は、1992年途中からアメリカのインディ/CARTシリーズにベッテンハウゼン・モータースポーツより参戦。デビュレースで3位表彰台に立つ[22]などしてルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。1993年にインディ500に出走したことにより、ヨハンソンはモナコグランプリル・マン24時間レース・インディ500のいわゆる『世界3大レース』への出走を果たした。CARTには約5年参戦し、1996年を最後にフォーミュラカーから引退した。

1997年にはミケーレ・アルボレート、トム・クリステンセンと共にヨースト・ポルシェをドライブしル・マン24時間耐久レースで優勝するなど、耐久レースの世界で活躍した。なお、このル・マン24時間には1983年以後の大半の年に参戦(フェラーリ、マクラーレンと契約時はF1以外のレースは契約上不可)、ポルシェやアウディ、1990年と1991年にはマツダスピードからも参戦、1992年にはトヨタ・92C-Vを駆り上位完走している。

絵画やデザインへの関心が高く、1992年に自らデザインも担当する時計ブランド「H III」を立ち上げた。当時本人が「最初に僕の時計を買ってくれたお客さんはマリオ・アンドレッティなんだよ!」と喜んで語っていたエピソードがある[23]

1990年代後半からアメリカ・インディアナポリスを拠点に自らレーシングチームを組織し、インディ・ライツ選手権で若手にシートを与えて育成を始め、後に6度チャンピオンを獲得するスコット・ディクソンを見出し、フェリックス・ローゼンクビストのマネージメントも務めている[24]。また、自らのドライブでALMSやルマン24時間レースに、かつてF1に同時期参戦し親交のあったジョニー・ハーバートJ.J.レートをパートナーに参戦するなど50代になって以後もレースへの参戦を続けた。
現在

2005年より開催されていた元F1ドライバーが参戦するグランプリマスターズに参戦した他、様々なカテゴリーのレースにも参戦している。現在は高級時計ブランド「ステファン・ヨハンソン・ベクショー」を経営する。

2013年8月4日、スーパーフォーミュラ第4戦もてぎに来場し、エンジン始動コールと優勝者への「ステファン・ヨハンソン賞」のプレゼンターを務めた。2014年は久々にWECに参戦することが発表された。
日本との関係

日本でのレースにも多数参戦経験があり、全日本F2には1981年より毎年スポット参戦し、1984年はフルエントリー(前述)、その他にも富士インターTECWEC-JAPANなど日本で行われた国際レースの常連であり、日本人F1ドライバーの中嶋悟が誕生するまでの数年、ヨハンソンは日本のレースとF1との距離をはかる物差し的な存在として日本のレースファンから注目されていた。1985年のオートテクニック誌にはコラム(日記)が連載されていた。また、F1のシートを失っていた1988年と1990年のオフには全日本F3000からの誘いが来たこともあった。

F1時代の1988年から1993年まで、ヨコハマタイヤのイメージキャラクターとして雑誌広告やテレビCMに出演した。ADVANの特集誌が発売された際にもインタビューに応じ「ADVANカラーのマシンに乗るのはとても名誉なことだった」と述べており[25]、ADVANタイヤの開発をしていた高橋健二(2005年死去)への信頼も語っている。

その他1988年にはトヨタと日本国内のグループCカー(JSPC)でのレース契約を結び、アパレルブランド「taka-Q」カラーのマシンをドライブした。「taka-Q」は1984年5月からヨハンソンをパーソナルスポンサーとしても支援した。

トヨタとの契約は日本国内で開催されるレースに関してのみで、ヨーロッパ開催のグループCカーレース(WSPC)では同年、1988年の終盤戦にザウバーメルセデスC9を駆り参戦、第9戦のスパ・フランコルシャンではマウロ・バルディとのコンビで優勝している。さらにF1引退後も上記の様に度々日本を訪れている。
エピソード

今宮純著の「F1大百科」によると、オニクス移籍時、ヨハンソン自ら日本のダンパーメーカーに仕事を依頼したと言うエピソードがあるという。結局、実現はしなかった。

F1ドライバーとしては珍しくタバコ好き。当時は他にアレッサンドロ・ナニーニネルソン・ピケ、ケケ・ロズベルグが喫煙者として知られていた。日本で参戦していた1984年にはオートスポーツ誌の企画で星野一義との対談があり、互いにスモーカー同士であり吸いながら談笑している様子が掲載されたこともあったが、その銘柄は星野が「ラーク」、ヨハンソンが「マールボロ」であった。

1986年スペイングランプリではヘルメットが行方不明となり、ナイジェル・マンセルのスペアのヘルメットを貸りてレースに出た。また急遽復帰が決まった1991年カナダグランプリでは初日に自身のヘルメット到着が間に合わず、同じSHOEIユーザーだったジョニー・ハーバートの物を貸り、トレードマークの葉っぱを手書きステッカーでサイド部に貼付けて予選を走った[26]

風貌がアーノルド・シュワルツェネッガーに似ているとされ、日本人女性のファンも多かった。1988年にはファッション誌「POPEYE」にモデルとして起用され表紙モデルも担当した。


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