ほどなくしてディッコはジョー・サイモンとジャック・カービーのスタジオに職を見つけた。二人はいずれも原作者兼作画家で、すでにキャプテン・アメリカなどのキャラクターを生み出していた。背景のインク(ペン入れ)担当として仕事を始めたディッコは、以前から尊敬していたモート・メスキンと同僚になり、絵を学ぶようになった。「メスキンは素晴らしかった」とディッコは回想している。「あんな絵を易々と描けるなんて信じられなかった。構図は力強く、ラフなペンシル画でも完成されていて、ごちゃごちゃさせずにディテールを描く。本当に好きだった」[12] ディッコがアシスタントとして関わったことが確定している作品には、カービーがペンシル(下絵)を描き、メスキンがディッコとともにインカーを務めた Captain 3-D 第1号(1953年12月、ハーヴェイ・コミックス(英語版))がある[13]。ディッコが自身でペンシルとインクを行った第3作 "A Hole in His Head" は、サイモンとカービーのクレストウッド社(英語版)のインプリントであるプライズ・コミックスが出していた Black Magic 第4シリーズ3号(1953年12月)に掲載された[14]。
後年まで続くチャールトン・コミックスとの関係はこのころに始まった。コネチカット州ダービーに位置するチャールトンは、歌詞の雑誌で知られる出版社の低予算部門だった。第1作となったのは The Thing! 第12号(1954年2月)で、ディッコは表紙のほか8ページの吸血鬼もの "Cinderella" を描いた。同社ではその後、1986年の倒産まで断続的にSF・ホラー・ミステリ作品を描き続けることになる。また Space Adventures 第33号(1960年3月)では原作者ジョー・ギルとともにキャプテン・アトム(英語版)を生み出した[15]。
1954年の半ば、結核を患ったためチャールトンでの活動ばかりかコミックの仕事一切を休止してジョンズタウンの実家で療養した[16]。 健康を取り戻したディッコは1955年末にニューヨークに戻り[16]、マーベル・コミックスの前身であるアトラス・コミックスで仕事を始めた。『ジャーニー・イントゥ・ミステリー
マーベル・コミックス
リーとディッコの短編は非常な人気を集めたため、『アメイジング・アドベンチャーズ』誌は第7号(1961年12月)から路線を変更して同種の作品だけを載せるようになり、『アメイジング・アダルト・ファンタジー』と改名した。この名は「洗練された」作風を表そうとしたもので、キャッチフレーズも "The magazine that respects your intelligence"(知的な君たちのための雑誌)とされた。リーが2009年に回想するところでは、「当時よく思いついた、オー・ヘンリー風の結末をつけた奇妙な空想話」をディッコとともに「5ページの短い穴埋めコミック・ストリップ」に仕上げ、「わが社のコミックブックでページが余れば何にでも」載せたという。リーによればそれらの作品は、後に「マーベル・メソッド」と呼ばれるようになる制作体制(ライターがプロットを考え、作画家がそれをもとにコマ割りと作画を行い、最後にライターがセリフやナレーションを付ける)の草分けだった。「スティーヴにプロットを軽く説明すれば、あとは彼が全部やってくれた。私が伝えた大ざっぱな骨格から一流のコミック作品を生み出してくれる。