スティーヴ・ディッコ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

[46]

漫画家ファインアートも描いているセス(英語版)は、2003年にディッコの作風を次のように評した。「メインストリーム・コミックとしては異色だ。カービーの絵が圧倒的な迫力で少年の心をわしづかみにするのに対して、ディッコが描くのは繊細なカートゥーンだ。そこにはデザインの感覚があった。ディッコのデザインには華やかさがあるから、見ればすぐそれとわかる。丹念に描かれたディテールの豊かさはほとんどサイケデリックなほどだ」[47]
マーベル離脱

ディテールが効いていて憂鬱と不安を感じさせるディッコ独特の画風はどの作品を描いていてもすぐに見分けがつき、読者から強く支持された。特にスパイダーマンというキャラクターは、苦労の多い私生活も併せて、ディッコ自身の志向とうまく噛み合った。スタン・リーも38号にわたってディッコと共作を行う中でそれを認めるようになり、後半の号ではプロット作成のクレジットを彼に譲った。しかし、ディッコは4年にわたってスパイダーマンを描き続けたところでマーベルを離れた[48]

そのころディッコとリーは会話を交わすことがなくなっており、作画や編集に関する要求は第三者を介していた[49]。軋轢が生じた経緯はリーにも明らかではない。リーは2003年に「スティーヴとは結局一度も打ち解けたことがなかった」と述懐している[49]。不和の原因はグリーンゴブリンの正体について意見が対立したためだという通説があるが、ディッコは後にそれを否定し、リーが契約を破ったためだと語った[50]。スタンは何も知らなかったからね。私がスパイダーマンのストーリーと表紙に何を描いているか。[プロダクション・マネージャーの]ソル・ブロツキーが原稿を持っていってようやく知るんだ。[その後でリーがセリフを作る。] … だから意見が合うも合わないも、やり取り自体がなかった。 … グリーンゴブリンだろうが何だろうが問題が起きるはずがない。[そういう制作体制だったのは]第25号より前から、私が辞める号までだ[51]

スパイダーマンの作画を引き継いだジョン・ロミータ・Srは、2010年に証言録取書(英語版)の中で「[リーとディッコは]共作などできない関係になった。ほとんどどんなことでも意見が合わなかったから。文化、社会、歴史、すべてにおいて。キャラクターの扱いについても…」という記憶を語っている[52]

1966年7月にマーベル社から発行されたコミックブックの "Bullpen Bulletins(英語版)"(読者欄)ではディッコに友情のこもった別れの言葉が贈られた。一例として『ファンタスティック・フォー』第52号では「スティーヴから個人的な理由で辞めると聞いた。長年一緒にやってきたのに残念だけど、次の取り組みでも成功するよう、才能あるスティーヴのために祈っているよ」と書かれた[53]
チャールトン・コミックスとDCコミックス

ディッコはチャールトンでの仕事を再開した。ページ単価は安いが、制作者の自由度は大きい会社だった。同社ではブルービートル(英語版)(1967年 - 1968年)[54]クエスチョン(1967年 - 1968年)などのキャラクターを手がけ、かつて1960年に共同制作したキャプテン・アトムにも復帰した(1965年 - 1967年)。ほかにも1966年から翌年にかけてウォレン・パブリッシング(英語版)のホラー誌 Creepy や Eerie で、アーチー・グッドウィン(英語版)などの原作を受けて、主にインクウォッシュの技法で16本の短編を描いた[55]

1967年、自身のオブジェクティビズム思想を完璧に体現したキャラクターであるミスターA(英語版)を作り出し、ウォーリー・ウッド(英語版)の独立系コミック witzend 第3号に登場させた。犯罪に対して強硬な姿勢は論議を呼んだが[要出典]、1970年代までミスターAのストーリー作品と1ページ作品を描き続けた[要出典]。その後2000年と2009年にもミスターAを描いている[要出典]。

1968年にDCコミックスに移り、編集者マリー・ボルチノフ(英語版)の下、『ショーケース(英語版)』第73号(1968年4月)でドン・セガールとともに新キャラクタークリーパー(英語版)を制作した[56]。DCの重役で原作者でもあったポール・レヴィッツ(英語版)の所見では、「クリーパー」はディッコの作画により「そのときDCが出していたどんなタイトルとも似ないものになった」という[57]。『ショーケース』第75号(1968年6月)では、ライターのスティーヴ・スキーツとともにホーク&ダブ(英語版)のコンビを制作した[58]。このころ、ウォーリー・ウッドが成人読者を対象に刊行したインディペンデント・コミックの草分け Heroes, Inc. Presents Cannon(1969年)で、ウッドのインクと原作により巻頭作品の作画を行った[59]

DCでの活動は短期で終わり、クリーパーの個人誌 Beware the Creeper 全6号(1968年6月 - 1969年4月)を任されるも、最終号の半ばでDCを離れた。その理由は明かされていない。しかしディッコはDCで活動している間に、チャールトンの編集局員だったディック・ジョルダーノ(英語版)を同社に推薦した[60]。ジョルダーノは後にDCトップのペンシラーとなり、さらにインカー、編集者、そして1981年には編集長にまでなった。

DC離脱から1970年代の半ばまではチャールトンと小出版社やインディペンデント出版社でしか仕事をしなかった。この時期チャールトンのアートディレクターだったフランク・マクローリン(英語版)はディッコについて、「ダービーの小さいホテルにしばらく住んでいた。そのころのディッコは楽天的でユーモアのセンスがある男で、色分解(英語版)担当の女性にいつもお菓子なんかの贈り物を持ってきた」と述べている[61]

1974年にチャールトンで E-Man 誌のバックアップ(併録作品)としてリバティベルのストーリーを描き、キルジョイを生み出した。同社でSF・ホラー誌に多数の作品を描く一方で、マーベルの発行人だったマーティン・グッドマンが新規に立ち上げたアトラス/シーボード・コミックス(英語版)ではライターのアーチー・グッドウィンとともにヒーローのディストラクターを制作し、そのタイトル全4号(1975年2月 - 8月)でペンシラーを務めた。そのうち前半の2号はウォーリー・ウッドがインクを手がけた。Tiger-Man の第2号と第3号でも作画を行い、Morlock 2001 第3号ではインクのバーニー・ライトソンと組んだ[59]
後年

1975年にDCコミックスに戻り、短命に終わった『シェイド・ザ・チェンジングマン(英語版)』(1977年 - 1978年)を立ち上げた[59][62]。シェイドは後にディッコの手を離れて、DCの成人読者向けレーベルヴァーティゴ(英語版)で復刊されることになる。原作者のポール・レヴィッツとは、全4号の剣と魔法のファンタジー『ストーカー(英語版)』(1975年 - 1976年)を共作した[63][64]。原作者のジェリー・コンウェイと組んで『マンバット』全2号の第1号を手掛けた[65]。またクリーパーを復活させた[66]。そのほかDCでは、1979年に短期間刊行されたエトリガン・ザ・デーモン(英語版)のバックアップシリーズやホラー・SFアンソロジーへの短編寄稿など様々な仕事を行った。編集者のジャック・C・ハリスによって『リージョン・オブ・スーパーヒーローズ』のゲスト作画家として何号か起用されたが、同誌のファン層からは必ずしも歓迎されなかった[67]。『アドベンチャー・コミックス(英語版)』第467号から第478号にかけて「スターマン(英語版)」(プリンス・ガヴィン期)を描いた[59][68]。その後DCを去って様々な出版社で仕事をしたが、1980年代半ばに一時的に復帰して、Who's Who: The Definitive Directory of the DC Universe (1985年 - 1987年)に自作のキャラクターのピンナップを4枚描いたほか、『スーパーマン』第400号(1984年10月)のピンナップや[69][70] 同時刊行のイラスト集に寄稿した[71]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:149 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef