漫画家でファインアートも描いているセス(英語版)は、2003年にディッコの作風を次のように評した。「メインストリーム・コミックとしては異色だ。カービーの絵が圧倒的な迫力で少年の心をわしづかみにするのに対して、ディッコが描くのは繊細なカートゥーンだ。そこにはデザインの感覚があった。ディッコのデザインには華やかさがあるから、見ればすぐそれとわかる。丹念に描かれたディテールの豊かさはほとんどサイケデリックなほどだ」[47] ディテールが効いていて憂鬱と不安を感じさせるディッコ独特の画風はどの作品を描いていてもすぐに見分けがつき、読者から強く支持された。特にスパイダーマンというキャラクターは、苦労の多い私生活も併せて、ディッコ自身の志向とうまく噛み合った。スタン・リーも38号にわたってディッコと共作を行う中でそれを認めるようになり、後半の号ではプロット作成のクレジットを彼に譲った。しかし、ディッコは4年にわたってスパイダーマンを描き続けたところでマーベルを離れた[48]。 そのころディッコとリーは会話を交わすことがなくなっており、作画や編集に関する要求は第三者を介していた[49]。軋轢が生じた経緯はリーにも明らかではない。リーは2003年に「スティーヴとは結局一度も打ち解けたことがなかった」と述懐している[49]。不和の原因はグリーンゴブリンの正体について意見が対立したためだという通説があるが、ディッコは後にそれを否定し、リーが契約を破ったためだと語った[50]。スタンは何も知らなかったからね。私がスパイダーマンのストーリーと表紙に何を描いているか。[プロダクション・マネージャーの]ソル・ブロツキーが原稿を持っていってようやく知るんだ。[その後でリーがセリフを作る。] … だから意見が合うも合わないも、やり取り自体がなかった。 … グリーンゴブリンだろうが何だろうが問題が起きるはずがない。[そういう制作体制だったのは]第25号より前から、私が辞める号までだ[51]。 スパイダーマンの作画を引き継いだジョン・ロミータ・Srは、2010年に証言録取書
マーベル離脱
1966年7月にマーベル社から発行されたコミックブックの "Bullpen Bulletins(英語版)"(読者欄)ではディッコに友情のこもった別れの言葉が贈られた。一例として『ファンタスティック・フォー』第52号では「スティーヴから個人的な理由で辞めると聞いた。長年一緒にやってきたのに残念だけど、次の取り組みでも成功するよう、才能あるスティーヴのために祈っているよ」と書かれた[53]。 ディッコはチャールトンでの仕事を再開した。ページ単価は安いが、制作者の自由度は大きい会社だった。同社ではブルービートル
チャールトン・コミックスとDCコミックス
1967年、自身のオブジェクティビズム思想を完璧に体現したキャラクターであるミスターA(英語版)を作り出し、ウォーリー・ウッド(英語版)の独立系コミック witzend 第3号に登場させた。犯罪に対して強硬な姿勢は論議を呼んだが[要出典]、1970年代までミスターAのストーリー作品と1ページ作品を描き続けた[要出典]。その後2000年と2009年にもミスターAを描いている[要出典]。
1968年にDCコミックスに移り、編集者マリー・ボルチノフ(英語版)の下、『ショーケース(英語版)』第73号(1968年4月)でドン・セガールとともに新キャラクタークリーパー(英語版)を制作した[56]。DCの重役で原作者でもあったポール・レヴィッツ(英語版)の所見では、「クリーパー」はディッコの作画により「そのときDCが出していたどんなタイトルとも似ないものになった」という[57]。『ショーケース』第75号(1968年6月)では、ライターのスティーヴ・スキーツとともにホーク&ダブ(英語版)のコンビを制作した[58]。このころ、ウォーリー・ウッドが成人読者を対象に刊行したインディペンデント・コミックの草分け Heroes, Inc. Presents Cannon(1969年)で、ウッドのインクと原作により巻頭作品の作画を行った[59]。
DCでの活動は短期で終わり、クリーパーの個人誌 Beware the Creeper 全6号(1968年6月 - 1969年4月)を任されるも、最終号の半ばでDCを離れた。その理由は明かされていない。しかしディッコはDCで活動している間に、チャールトンの編集局員だったディック・ジョルダーノ(英語版)を同社に推薦した[60]。ジョルダーノは後にDCトップのペンシラーとなり、さらにインカー、編集者、そして1981年には編集長にまでなった。
DC離脱から1970年代の半ばまではチャールトンと小出版社やインディペンデント出版社でしか仕事をしなかった。この時期チャールトンのアートディレクターだったフランク・マクローリン(英語版)はディッコについて、「ダービーの小さいホテルにしばらく住んでいた。そのころのディッコは楽天的でユーモアのセンスがある男で、色分解(英語版)担当の女性にいつもお菓子なんかの贈り物を持ってきた」と述べている[61]。
1974年にチャールトンで E-Man 誌のバックアップ(併録作品)としてリバティベルのストーリーを描き、キルジョイを生み出した。同社でSF・ホラー誌に多数の作品を描く一方で、マーベルの発行人だったマーティン・グッドマンが新規に立ち上げたアトラス/シーボード・コミックス(英語版)ではライターのアーチー・グッドウィンとともにヒーローのディストラクターを制作し、そのタイトル全4号(1975年2月 - 8月)でペンシラーを務めた。そのうち前半の2号はウォーリー・ウッドがインクを手がけた。Tiger-Man の第2号と第3号でも作画を行い、Morlock 2001 第3号ではインクのバーニー・ライトソンと組んだ[59]。 1975年にDCコミックスに戻り、短命に終わった『シェイド・ザ・チェンジングマン
後年