スティーヴ・ディッコ
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インクレディブル・ハルク』最終号(第6号、1963年3月)の作画を行ったのに続いて、『ストレンジ・テイルズ』第110号(1963年7月)で魔術師ヒーローのドクター・ストレンジを作り出した[41][42][43]。ディッコとリーはその後しばらくして、アンソロジー誌『テイルズ・トゥ・アストニッシュ』第60号(1964年10月)で短編連載としてハルクを復活させた。ディッコはインカーのジョージ・ルーソスと組んで第67号(1965年5月)までペンシラーを務めた。第62号(1964年12月)ではハルクの宿敵リーダーをデザインした。

ディッコは『テイルズ・オブ・サスペンス』誌で連載されていたアイアンマンのペンシルを第47号から第49号まで(1963年11月?1964年1月)担当した。インカーは各号で異なる。第47号では、現行の配色でもある赤と金のアイアンマン・アーマーの初期版が登場した。ただしそれをデザインしたのがディッコなのか、あるいはメインのキャラクターデザイナーで表紙のペンシルも描いていたジャック・カービーなのかは明らかになっていない。

『アメイジング・スパイダーマン』での業績に隠れがちではあるが、「ドクター・ストレンジ」におけるディッコの作画も同程度に高く評価されてきた。そのシュルレアルで神秘的な世界像と、どんどんサイケデリックになっていく表現は大学生の人気を集めた。「ドクター・ストレンジの読者は、マーベル関係者は「ヘッド(麻薬常用者)」ばかりだと思い込んでいた」と、当時アシスタント・エディターでドクター・ストレンジの原作を書いたこともあるロイ・トーマス(英語版)は1971年に語っている。「そういう人たちは、自分でもマッシュルームをキメて似たような体験をしていたからね。でも … 私は幻覚剤をやらないし、アーティストたちもやっていないと思うよ」[44]

やがてリーとディッコは、ストレンジをいっそう抽象的な方向に押し進めることになる。『ストレンジ・テイルズ』第130号から146号まで(1965年3月 ? 1966年7月)の17号にわたる壮大なストーリーで、リーとディッコは宇宙的な存在であるエターニティ(英語版)を登場させた。エターニティはこの世界そのものの化身であり、宇宙空間を輪郭で囲ったような姿を持つ[45]。歴史家ブラッドフォード・W・ライトは以下のように説明する。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}スティーヴ・ディッコが同作で行った作画は彼としてもシュルレアルの極で、幻覚体験を与えるようなものだった。ドクター・ストレンジが冒険するのは、サルバドール・ダリの絵画にも似た、奇怪な世界やねじくれた次元である。… スタン・リーが子供時代に読んだパルプ小説の魔術師や同時代のビートニク文化から生まれたドクター・ストレンジは、若者のカウンターカルチャーが東洋神秘主義やサイケデリックに傾倒していく流れを見事に先取りしていた。ドクター・ストレンジはマーベルキャラクターの中で決して人気や知名度は高くなかったが、よくあるスーパーヒーロー物よりも歯応えのある作品を求めていた読者の間に地歩を築いた。[46]

漫画家ファインアートも描いているセス(英語版)は、2003年にディッコの作風を次のように評した。「メインストリーム・コミックとしては異色だ。カービーの絵が圧倒的な迫力で少年の心をわしづかみにするのに対して、ディッコが描くのは繊細なカートゥーンだ。そこにはデザインの感覚があった。ディッコのデザインには華やかさがあるから、見ればすぐそれとわかる。丹念に描かれたディテールの豊かさはほとんどサイケデリックなほどだ」[47]
マーベル離脱

ディテールが効いていて憂鬱と不安を感じさせるディッコ独特の画風はどの作品を描いていてもすぐに見分けがつき、読者から強く支持された。特にスパイダーマンというキャラクターは、苦労の多い私生活も併せて、ディッコ自身の志向とうまく噛み合った。スタン・リーも38号にわたってディッコと共作を行う中でそれを認めるようになり、後半の号ではプロット作成のクレジットを彼に譲った。しかし、ディッコは4年にわたってスパイダーマンを描き続けたところでマーベルを離れた[48]

そのころディッコとリーは会話を交わすことがなくなっており、作画や編集に関する要求は第三者を介していた[49]。軋轢が生じた経緯はリーにも明らかではない。リーは2003年に「スティーヴとは結局一度も打ち解けたことがなかった」と述懐している[49]。不和の原因はグリーンゴブリンの正体について意見が対立したためだという通説があるが、ディッコは後にそれを否定し、リーが契約を破ったためだと語った[50]。スタンは何も知らなかったからね。私がスパイダーマンのストーリーと表紙に何を描いているか。[プロダクション・マネージャーの]ソル・ブロツキーが原稿を持っていってようやく知るんだ。[その後でリーがセリフを作る。] … だから意見が合うも合わないも、やり取り自体がなかった。 … グリーンゴブリンだろうが何だろうが問題が起きるはずがない。[そういう制作体制だったのは]第25号より前から、私が辞める号までだ[51]

スパイダーマンの作画を引き継いだジョン・ロミータ・Srは、2010年に証言録取書(英語版)の中で「[リーとディッコは]共作などできない関係になった。ほとんどどんなことでも意見が合わなかったから。文化、社会、歴史、すべてにおいて。キャラクターの扱いについても…」という記憶を語っている[52]

1966年7月にマーベル社から発行されたコミックブックの "Bullpen Bulletins(英語版)"(読者欄)ではディッコに友情のこもった別れの言葉が贈られた。一例として『ファンタスティック・フォー』第52号では「スティーヴから個人的な理由で辞めると聞いた。長年一緒にやってきたのに残念だけど、次の取り組みでも成功するよう、才能あるスティーヴのために祈っているよ」と書かれた[53]
チャールトン・コミックスとDCコミックス

ディッコはチャールトンでの仕事を再開した。ページ単価は安いが、制作者の自由度は大きい会社だった。同社ではブルービートル(英語版)(1967年 - 1968年)[54]クエスチョン(1967年 - 1968年)などのキャラクターを手がけ、かつて1960年に共同制作したキャプテン・アトムにも復帰した(1965年 - 1967年)。ほかにも1966年から翌年にかけてウォレン・パブリッシング(英語版)のホラー誌 Creepy や Eerie で、アーチー・グッドウィン(英語版)などの原作を受けて、主にインクウォッシュの技法で16本の短編を描いた[55]

1967年、自身のオブジェクティビズム思想を完璧に体現したキャラクターであるミスターA(英語版)を作り出し、ウォーリー・ウッド(英語版)の独立系コミック witzend 第3号に登場させた。犯罪に対して強硬な姿勢は論議を呼んだが[要出典]、1970年代までミスターAのストーリー作品と1ページ作品を描き続けた[要出典]。その後2000年と2009年にもミスターAを描いている[要出典]。

1968年にDCコミックスに移り、編集者マリー・ボルチノフ(英語版)の下、『ショーケース(英語版)』第73号(1968年4月)でドン・セガールとともに新キャラクタークリーパー(英語版)を制作した[56]。DCの重役で原作者でもあったポール・レヴィッツ(英語版)の所見では、「クリーパー」はディッコの作画により「そのときDCが出していたどんなタイトルとも似ないものになった」という[57]。『ショーケース』第75号(1968年6月)では、ライターのスティーヴ・スキーツとともにホーク&ダブ(英語版)のコンビを制作した[58]。このころ、ウォーリー・ウッドが成人読者を対象に刊行したインディペンデント・コミックの草分け Heroes, Inc. Presents Cannon(1969年)で、ウッドのインクと原作により巻頭作品の作画を行った[59]

DCでの活動は短期で終わり、クリーパーの個人誌 Beware the Creeper 全6号(1968年6月 - 1969年4月)を任されるも、最終号の半ばでDCを離れた。その理由は明かされていない。しかしディッコはDCで活動している間に、チャールトンの編集局員だったディック・ジョルダーノ(英語版)を同社に推薦した[60]。ジョルダーノは後にDCトップのペンシラーとなり、さらにインカー、編集者、そして1981年には編集長にまでなった。

DC離脱から1970年代の半ばまではチャールトンと小出版社やインディペンデント出版社でしか仕事をしなかった。


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