スティーヴ・ディッコ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

第3号(1963年7月)ではドクター・オクトパス[29]、第4号(同年9月)ではサンドマン[30]、第6号(同年11月)ではリザード[31]、第9号(1964年3月)ではエレクトロ[32]、そして第14号(同年7月)ではグリーンゴブリンが誕生した[33]。ディッコはやがて、自身が作画と同時にプロット作成にも関与していること(マーベル・メソッド)をクレジットに反映させるよう要求した。リーはこれを認め、第25号(1965年6月)からディッコがプロット作成としてもクレジットされるようになった[34]

リー=ディッコ体制の『アメイジング・スパイダーマン』の中でも、三話構成のストーリー "If This Be My Destiny...!" の結末である第33号(1966年2月)は名作として知られている。この号には、大きな機械の下敷きとなったスパイダーマンが意志力と家族への思いを振り絞って脱出を果たす劇的なシーンがあった。コミック史の著作を持つレス・ダニエルズは「スティーヴ・ディッコはここで、スパイダーマンの窮地をこの上ない苦しみとして描いている。かつて救えなかった伯父と、守ると誓った伯母の幻までが彼を襲う」と書いている[35]。コミック作家ピーター・デイヴィッド(英語版)は、「オリジン(誕生回)を除けば、『アメイジング・スパイダーマン』第33号のこの2ページは、おそらくスタン・リー/スティーヴ・ディッコ期でもっとも愛されているシーンだ」という所感を述べている[36]。スティーヴ・サフェルは「ディッコが『アメイジング・スパイダーマン』第33号で描いたページ一杯の大ゴマは、シリーズの歴史を通しても際立って迫力あるもので、後年まで原作者や作画家に影響を与え続けた」と述べた[37]。マシュー・K・マニングは「リーによるこのストーリーの冒頭数ページにディッコが描いたイラストレーションは、スパイダーマンの歴史を象徴するシーンの一つとなった」と書いた[38]。このストーリーはまた、2001年にマーベル読者が選ぶベスト100号[† 3] の第15位を占めた。その編集者ロバート・グリーンバーガー(英語版)はストーリー紹介として「冒頭の5ページは現代のシェイクスピアだ。[主人公の]パーカーの独白が次のアクションへの期待を高めていく。ディッコは劇的なテンポと語りにより、あらゆるコミックの中でも抜きんでて偉大なシークエンスを作り出したのだ」と書いた[39]。このシークエンスは2017年の映画『スパイダーマン:ホームカミング』でも引用されている[40]
ドクター・ストレンジ、その他のキャラクター

インクレディブル・ハルク』最終号(第6号、1963年3月)の作画を行ったのに続いて、『ストレンジ・テイルズ』第110号(1963年7月)で魔術師ヒーローのドクター・ストレンジを作り出した[41][42][43]。ディッコとリーはその後しばらくして、アンソロジー誌『テイルズ・トゥ・アストニッシュ』第60号(1964年10月)で短編連載としてハルクを復活させた。ディッコはインカーのジョージ・ルーソスと組んで第67号(1965年5月)までペンシラーを務めた。第62号(1964年12月)ではハルクの宿敵リーダーをデザインした。

ディッコは『テイルズ・オブ・サスペンス』誌で連載されていたアイアンマンのペンシルを第47号から第49号まで(1963年11月?1964年1月)担当した。インカーは各号で異なる。第47号では、現行の配色でもある赤と金のアイアンマン・アーマーの初期版が登場した。ただしそれをデザインしたのがディッコなのか、あるいはメインのキャラクターデザイナーで表紙のペンシルも描いていたジャック・カービーなのかは明らかになっていない。

『アメイジング・スパイダーマン』での業績に隠れがちではあるが、「ドクター・ストレンジ」におけるディッコの作画も同程度に高く評価されてきた。そのシュルレアルで神秘的な世界像と、どんどんサイケデリックになっていく表現は大学生の人気を集めた。「ドクター・ストレンジの読者は、マーベル関係者は「ヘッド(麻薬常用者)」ばかりだと思い込んでいた」と、当時アシスタント・エディターでドクター・ストレンジの原作を書いたこともあるロイ・トーマス(英語版)は1971年に語っている。「そういう人たちは、自分でもマッシュルームをキメて似たような体験をしていたからね。でも … 私は幻覚剤をやらないし、アーティストたちもやっていないと思うよ」[44]

やがてリーとディッコは、ストレンジをいっそう抽象的な方向に押し進めることになる。『ストレンジ・テイルズ』第130号から146号まで(1965年3月 ? 1966年7月)の17号にわたる壮大なストーリーで、リーとディッコは宇宙的な存在であるエターニティ(英語版)を登場させた。エターニティはこの世界そのものの化身であり、宇宙空間を輪郭で囲ったような姿を持つ[45]。歴史家ブラッドフォード・W・ライトは以下のように説明する。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}スティーヴ・ディッコが同作で行った作画は彼としてもシュルレアルの極で、幻覚体験を与えるようなものだった。ドクター・ストレンジが冒険するのは、サルバドール・ダリの絵画にも似た、奇怪な世界やねじくれた次元である。… スタン・リーが子供時代に読んだパルプ小説の魔術師や同時代のビートニク文化から生まれたドクター・ストレンジは、若者のカウンターカルチャーが東洋神秘主義やサイケデリックに傾倒していく流れを見事に先取りしていた。ドクター・ストレンジはマーベルキャラクターの中で決して人気や知名度は高くなかったが、よくあるスーパーヒーロー物よりも歯応えのある作品を求めていた読者の間に地歩を築いた。[46]

漫画家ファインアートも描いているセス(英語版)は、2003年にディッコの作風を次のように評した。「メインストリーム・コミックとしては異色だ。カービーの絵が圧倒的な迫力で少年の心をわしづかみにするのに対して、ディッコが描くのは繊細なカートゥーンだ。そこにはデザインの感覚があった。ディッコのデザインには華やかさがあるから、見ればすぐそれとわかる。丹念に描かれたディテールの豊かさはほとんどサイケデリックなほどだ」[47]
マーベル離脱

ディテールが効いていて憂鬱と不安を感じさせるディッコ独特の画風はどの作品を描いていてもすぐに見分けがつき、読者から強く支持された。特にスパイダーマンというキャラクターは、苦労の多い私生活も併せて、ディッコ自身の志向とうまく噛み合った。スタン・リーも38号にわたってディッコと共作を行う中でそれを認めるようになり、後半の号ではプロット作成のクレジットを彼に譲った。しかし、ディッコは4年にわたってスパイダーマンを描き続けたところでマーベルを離れた[48]

そのころディッコとリーは会話を交わすことがなくなっており、作画や編集に関する要求は第三者を介していた[49]。軋轢が生じた経緯はリーにも明らかではない。リーは2003年に「スティーヴとは結局一度も打ち解けたことがなかった」と述懐している[49]。不和の原因はグリーンゴブリンの正体について意見が対立したためだという通説があるが、ディッコは後にそれを否定し、リーが契約を破ったためだと語った[50]。スタンは何も知らなかったからね。私がスパイダーマンのストーリーと表紙に何を描いているか。[プロダクション・マネージャーの]ソル・ブロツキーが原稿を持っていってようやく知るんだ。[その後でリーがセリフを作る。] … だから意見が合うも合わないも、やり取り自体がなかった。 … グリーンゴブリンだろうが何だろうが問題が起きるはずがない。[そういう制作体制だったのは]第25号より前から、私が辞める号までだ[51]

スパイダーマンの作画を引き継いだジョン・ロミータ・Srは、2010年に証言録取書(英語版)の中で「[リーとディッコは]共作などできない関係になった。ほとんどどんなことでも意見が合わなかったから。文化、社会、歴史、すべてにおいて。キャラクターの扱いについても…」という記憶を語っている[52]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:149 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef