スティーヴン・スピルバーグ
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1993年『シンドラーのリスト』
1998年『プライベート・ライアン』
2022年『フェイブルマンズ
作品賞 (ミュージカル・コメディ部門)
2021年ウエスト・サイド・ストーリー
監督賞
1993年『シンドラーのリスト』
1998年『プライベート・ライアン』
2022年『フェイブルマンズ
アニメ映画賞
2011年タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密
作品賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)
2001年『バンド・オブ・ブラザーズ』
セシル・B・デミル賞
2008年
セザール賞
名誉賞
1995年
日本アカデミー賞
最優秀外国語作品賞
1982年『E.T.』
1993年ジュラシック・パーク
1994年『シンドラーのリスト』
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1982年『E.T.』
1986年カラーパープル
1993年『ジュラシック・パーク』
その他の賞
大統領自由勲章
2015年

備考
アンブリン・エンターテインメント及びドリームワークスの共同創業者
第66回カンヌ国際映画祭 審査委員長(2013年)
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スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg, 1946年12月18日 - ) は、アメリカ合衆国の映画製作者。アメリカ映画アカデミー会員。大英帝国勲章(KBE) 受章。フォーブスの「アメリカで最も裕福なセレブリティ」2位の人物である。2018年には総興行収入が100億ドル(約1兆728億円)を超えた初めての映画監督となった[1]
経歴
生い立ち

オハイオ州シンシナティウクライナ系ユダヤ人[2] の家庭に生まれ、アリゾナ州に育つ。古い資料では1947年生まれとなっているが、これはスピルバーグが長年1947年生まれと偽ってきたためで、1946年生まれが正しい。

Spielberg(シュピールベルク)というドイツ語の姓は直訳すると「芝居山」という意味で、祖先が17世紀に居住していたオーストリアの町の名前に由来する。英語訳では「Playmount」となり、彼が若い頃の映画製作の社名にしていた。

父アーノルド・スピルバーグ(英語版)(1917年 - 2020年)は電気技師、母リア・アドラー(1920年 - 2017年)はコンサートピアニスト(後にレストラン経営者となり、ロサンゼルスで“The Milk Way”というユダヤの乳製品料理のレストランを始める)であった[3]。妹に脚本家(作品に『ビッグ』など)のアン・スピルバーグ(英語版)(1949年 - )がいる。父の仕事の都合上、引っ越しが多かったという。
幼少時代

ユダヤ人であったほか、ディスレクシア(失読症もしくは難読症、学習障害の一種)のために同級生より読み書きを修得する速度が遅く、このためいじめも受けたこともあった[注釈 1]。また、両親は離婚しており、これらのことが後の作品に大きな影響を及ぼすことになる。

初めて観た映画は5歳の頃に鑑賞した『地上最大のショウ』。幼い頃から8ミリカメラで自主的に映画を製作する。きっかけは13歳の頃、家族旅行の際に父親から8ミリカメラを渡され撮影係を頼まれたためだという。

ジョン・フォードスタンリー・キューブリックデヴィッド・リーン黒澤明アルフレッド・ヒッチコック、『ゴジラ』など様々な映画の影響をうけるが、特にディズニー映画は初期の彼の作品にさまざまな影響を与えている。雑誌のインタビューで「ウォルト・ディズニーこそ僕の生みの親で、テレビは育ての親だ」と語っている。
少年時代

17歳の時、アリゾナに住んでいたスピルバーグはカリフォルニアに遊びに来た際、ユニバーサル・スタジオをバスで回るツアーに参加。ツアーの途中でトイレに隠れてバスが去ってからスタジオ内を探索した。スタジオで映像保管係をしていたスタッフと知り合うと、3日間の通行証を作ってもらったためその3日間で人脈を作り、スタジオには顔パスで入れるようになり、通行証なしで出入りできるようになったという[4]。この頃、映画監督のジョン・フォードと出会う。

1965年からカリフォルニア州立大学ロングビーチ校にて映画を専攻。この頃になると、スピルバーグは大学に通う一方で休みになるとユニバーサルへ行くようになり、ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスとして使用してユニバーサルに居候を始め、ハリウッドの映画界を出入りするようになる。

その後、21歳のときに、オープニングタイトルとオプチカル効果の会社を経営しているデニス・ホフマンと知り合い、映画製作資金を提供してもらうこととなり、26分の短編「アンブリン」を完成させる。 アトランタ映画祭で最優秀短編映画賞を受賞したこの映画が、ユニバーサルテレビ部門の責任者シドニー・シャインバーグ(英語版)の目に止まり、ユニバーサルと7年契約することとなる。

しかし、上記の契約のため大学の卒業は困難になり、1969年にカリフォルニア州立大学は中退した。後に再度入学し卒業、2002年にB.A.(学士号)を取得。なお、1999年にブラウン大学から名誉博士号を授与されている。
職歴
(1969年?)1970年代

スタジオと契約し、1969年にプロ監督として初めて手掛けた作品は、ロッド・サーリングが脚本を手掛けたテレビシリーズ『四次元への招待』パイロット版の一編「アイズ」。1971年には『刑事コロンボ』の第3作目である「構想の死角」で監督を務めたほか、テレビ映画として撮った『激突!』が評判を呼び、海外で劇場公開されたことで、スピルバーグの名が世界に知られるようになる。1974年に『続・激突! カージャック』で、劇場用映画監督に進出する。

1975年に公開された『ジョーズ』は、それまでの『ゴッドファーザー』の記録を破り、1977年に『スター・ウォーズ』に抜かれるまで世界歴代興行収入1位を記録する大ヒットとなり、一流監督の仲間入りを果たす。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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