Apple退職後、ジョブズはルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を1,000万ドルで買収し、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立した。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション(NeXTcube, NeXTstation)とオペレーティングシステム(OS)NEXTSTEPを開発を指揮・主導した[35]。
1996年、業績不振に陥っていたAppleにNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてAppleの業績を向上させた。WWDC07でのスティーブ・ジョブズ
2000年、正式にCEOに就任[36]。2001年から2003年にかけてMacのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える[37][38]。その後はiPod・iPhone・iPad、Appleの業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。一方で、2003年には膵臓がんと診断された[39]。
CEOに就任して以来、基本給与として年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[40](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカリフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界でもっとも給与の安い最高経営責任者」と呼ばれた。しかし、無報酬ではなくAppleから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている[41]。2006年にピクサーをディズニーが74億ドルで買収したことにより、ピクサー株の50%を保有するジョブズはディズニーの個人筆頭株主となり同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。
2011年10月5日、膵臓がんにより死去[42][43][44]。56歳没。
2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[45]。2022年7月7日にはアメリカ合衆国で文民に贈られる最高位の勲章である大統領自由勲章を追贈された[46]。
経歴[ソースを編集]
1955 ? 1974[ソースを編集]
生い立ち[ソースを編集]
スティーブ・ジョブズは1955年2月24日、シリア人の父アブドゥルファター・ジャンダーリ (阿: ??? ?????? ???????) と、ドイツ・スイス系アメリカ人の母ジョアン・キャロル・シーブル (英: Joanne Carole Schieble) との間に、サンフランシスコで生まれた[20][47]。ジョブズは生後すぐに養子に出され、養父母となったポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻によって育てられた[20]。
実父アブドゥルファター・ジャンダーリは1931年にシリアのアラブ人ムスリムの家庭に生まれ、ホムスで育った[48]。レバノンのベイルート・アメリカン大学に入学したジャンダーリは学生活動家となり、政治的活動に参加して投獄されたこともあった[48]。 その後、ジャンダーリはPh.D.の取得を目指してアメリカのウィスコンシン大学に留学し、そこでのちにジョブズの実母となる、ジョアン・キャロル・シーブルと出会った[48][49]。ジャンダーリとシーブルは同年齢であったが、Ph.D.候補生であったジャンダーリはシーブルが受講した授業のティーチングアシスタントを務めていた[50]。ジョブズの実妹であるモナ・シンプソンによれば、シーブルの両親は娘がムスリムの男性と交際することを好ましく思っていなかった[50]。ウォルター・アイザックソンによると、シーブルは父親から「ジャンダーリとの交際を続けるなら勘当する」と脅されていたという[49]。
ジャンダーリによれば、シーブルの父親が自分との結婚を認めなかったため、シーブルは誕生以前からジョブズを養子に出すことを決めていた[47][51]。ジョブズが2005年6月12日のスタンフォード大学の卒業講演で語ったところによると、母であるジョアンはポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻が大学卒でないことを知り養子縁組を躊躇していたが、ジョブズ夫妻がスティーブを大学に進学させることを約束したことから養子縁組が成立したという[52]。なお、実の両親はのちに正式に結婚して女の子をもうけ、後に離婚している。スティーブが生母と再会するのは、スティーブが30歳を過ぎて、養母であるクララが亡くなった1986年である。ジョブズはそのときに初めて実の妹であるモナ・シンプソンがいることを知り、その後彼女とも対面を果たした。
一方、ジョブズは実父とは死ぬまで会おうとしなかった。父親のジャンダーリも、息子の成功に便乗していると思われるのを恐れ、親しい友人にも息子について語ることはほとんどなかったという[53]。