スティーブ・ウォズニアック
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1976年4月1日、ジョブズとウォズニアック、そしてロナルド・ウェイン(英語版)の3人は[注 1]、カリフォルニア州のビジネスパートナーシップとして「Apple Computer Company(アップルコンピュータ・カンパニー)」を創業した[12][13]

ジョブズは「Apple Computer」という社名の由来について、当時果実食主義を実践していたことに加え、リンゴ農園から帰ってきた直後だったこともあってこの名前を思いつき、その響きが「楽しげで、元気がよく、威圧感もない」と考え、「その上、電話帳でアタリより上に来る名前でもあった」ので採用したのだと説明している[14][15]。一方のウォズニアックは、この名前はジョブズが提案したものでありその真意は不明とした上で、「彼は音楽好きであったので、アップル・レコードから思いついたのかもしれない」とコメントしている[14][7]

ジョブズが「Apple」を提案したとき、ウォズニアックは即座に「ビートルズのアップル社と同名では訴訟沙汰にならないか?」とジョブズに問い返した(これは2013年の映画『スティーブ・ジョブズ』で描かれている)。この不安は後に「アップル対アップル訴訟」という形で現実のものとなってしまった。

1976年6月に、バイトショップに「Apple I」50台を納品。666.66ドル[注 2]の価格がついたが、あまり売れ行きが良くなかった。失望したロナルド・ウェインは権利を放棄して会社を去った。しかし、8月を過ぎると売上は好転。ジョブズとウォズニアックは昼夜時間を惜しんでApple Iを作り、そして売った。
Apple Computer設立Apple II

Apple Iの最初の取引で、約8,000ドル[注 3]の利益を手にした。Apple Iを大量に作って売ろうと考えたジョブズは、アタリ時代のボスであったブッシュネルに相談する。ブッシュネルは、ベンチャーキャピタル会社を紹介するが、ジョブズの話に興味を持てず、マイク・マークラを紹介した。

マークラは、フェアチャイルドとインテルのストックオプションで財を成し、若くして隠遁生活を送っていたが、ジョブズの話に興味を持ち1976年11月にAppleに加わった。マークラは個人資産の92,000ドル[注 4]を投資し、さらにバンク・オブ・アメリカから信用貸付枠を勝ち取った。1977年1月3日、3人はApple Computerを法人化した。

1977年5月には、ナショナル セミコンダクターからマイケル・スコット(英語版)を引き抜き、彼を社長の座につける。スコットはAppleをより組織的にするため、社員番号を入れた社員証を発行した。社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議した。社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。それ以降はマークラは3番、ジョブズをウォズニアックに紹介し最初の従業員となったフェルナンデスが4番である。スコットは5番目の入社であったが、好きな数字である7を社員番号としてもらった。
Appleでの開発

これと前後してウォズニアックは、Appleに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、機能拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをロッド・ホールトが開発した電源[16] 以外を、Integer BASICやフロッピードライブのコントローラIntegrated Woz Machineも含めてほとんど独力で開発。1977年6月に発表した。価格は1,298ドル[注 5]。Apple IIは爆発的に売れ、1984年には設置ベースで200万台[注 6]を超え、莫大な利益をAppleにもたらした。

1980年にAppleはIPO(株式公開)を果たし、ウォズニアックには1億ドル[注 7]を超える創業者利益が転がり込んだ。(創業時のビートル/電卓売却額を株式比率とすると、ジョブスはその6倍、ビートル+ブレイクアウト報酬/電卓+ブレイクアウト報酬とすると10.25倍であるが、実際にはウォズニアック45%、ジョブス45%、ウェイン10%の株式保有、ウェインが10%の株式を800ドル[注 8]で誰に売ったかは不明)

1981年2月、サンタクルーズスカイパークでウォズニアック自身が操縦していた軽飛行機が墜落。一命は取り留めたが、事故当時を含め5週間記憶を失った。

1982年にウォズニアックはウッドストック・フェスティバルの再来を夢見て、第1回USフェスティバルのイベントを開催した。正規の入場料を払った参加者は少なく、さらに340人の逮捕者を出して終わった。しかし、ウォズニアックは1983年にも第2回USフェスティバルを開催する。

1985年2月6日、AppleがApple IIを正しく扱っていないことを理由に役員を辞任したが、2020年現在まで社員であり続けている[17][18]。再びカリフォルニア大学バークレー校にロッキー・ラクーン・クラークという名前で入学し、1986年6月に電子工学の学位を取得した。

1985年2月、ロナルド・レーガン大統領からアメリカ国家技術賞を、ジョブズと共に授与される。


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