スターリン
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ジョン・フォード監督の『肉弾鬼中隊(英語版)』を観た際には、勇敢な兵士達の戦闘シーンに感銘を受け、同様の映画の制作を部下に指示し、ミハイル・ロンム監督による『十三人(英語版)』が作られた[396][注釈 16]

かなりの読書家であった。2万冊以上の蔵書を持ち、このうち5500冊には「スターリン蔵書」の印が押されていた[注釈 17]。ジャンルはマルクスエンゲルスカウツキーレーニンなどの社会主義関係、カントフィヒテヘーゲルなどの哲学書、文学書、歴史書、百科事典、外国語辞書、軍事書、雑誌、パンフレットから、ジノビエフラデックなどの粛清した政敵の著書、ヒトラーの『我が闘争』、マキャヴェッリの『君主論』、毛沢東の著作など多?に渡り、クレムリンの住居や別荘にきちんと分類されて置かれていた。彼は寸暇を惜しんで読みふけり、多くの色鉛筆でアンダーラインを引いたり余白に書き込むのを楽しみとし、気に入った本は息子の誕生日プレゼントとして送った。訪問客には机上の新刊の包みを指さして「私の読書のノルマは毎日500頁です。」と公言していた。
名前

スターリンのグルジア語のファーストネーム"?????"は"Iosif"(ヨシフ)と音訳され、ラストネームの"?????????"は、"Jugashvili" あるいは "Jughashvili(ジュガシヴィリ)と音訳される[注釈 18]。-????? "-shvili"はグルジア語の接尾辞で、「子供」または「息子」を意味する[注釈 19]。????(jugha;ジュガ)には複数の語源があるが、グルジア東部カヘティ州にあるジュガアニ(Jugaani)村に由来する[398]。英語圏においては"Joseph Stalin"(ジョセフ-スターリン)と綴られる。
生年月日

スターリンの生年月日は、長い間改竄されてきた[6]。スターリンの生年月日について発表された複数の情報源には矛盾があるが、ゴリにある生神女就寝教会にて、「1878年12月18日(ユリウス暦:12月6日)生まれ」という記録が発見されている。この出生日付は、学校の退学証明書、彼が23歳になる1902年4月18日からの広範な帝政支持者、ロシア秘密警察の記録、逮捕の記録、その他以前の革命活動の記録に至るまでそのままの状態で保存されている。1921年になってようやく、スターリン自身が手書きの履歴書にて「1878年12月18日」と記載している。しかしながら、1922年に権力を握ったのち、スターリンは自身の誕生日を「1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)」に変えた。その日は彼の誕生日としてソ連国内で祝われた[399]
宗教的信仰と方策

スターリンは、ソビエト連邦内の宗教法人と複雑な関係にあった[400]。スターリンは、グルジアの神学校で勉強していたころに隠れた無神論者となっている[401]。スターリンが無神論者になったという話は、スターリンが数年以上は信心深く、敬虔なままであったことを含むいくつかの明白な根拠を提示するのに失敗している[402]。根拠の一つとして、スターリンによる第二次世界大戦中の教会に対する禁止令は、彼が天から受けたと信じた指令であるという[403]
反ユダヤ感情

スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する嫌悪感を薄らながらも抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かぬ人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にラーザリ・カガノーヴィチマクシム・リトヴィノフなどユダヤ人などを重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾しており[404]、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていたが[注釈 20]、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対するエスニックジョークを話題にしては楽しんでいた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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