スターリン
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スターリンは度重なる父親の反対や障害を乗り越えつつ勉学に励んだ[注釈 4]

1894年8月、奨学金を得たスターリンは首都トビリシの神学校に入学した[35]。トビリシ神学校は全寮制であり、司祭を目指す約600人の訓練生と共同で生活することになった[36]。当初、スターリンは神学校でも非常に成績優秀だったが[37]、やがて神学に対する興味を失い、成績も下降していった[38]。また、学内で秘密裏に活動していた読書クラブに加わり、禁じられた書籍に触れるようになり[39]カール・マルクスの著作である『資本論』に影響され[40]熱心なマルクス主義者となった[41]。神学校の記録によれば、スターリンは自らを無神論者だと宣言しており、礼拝への参加や修道士への挨拶を拒否していた[42]。また、1896年には禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持で、1898年には朝の祈?の欠席や規律違反、反抗的態度などで繰り返し注意や処罰を受けていた[43]1899年4月、スターリンはトビリシ神学校を去り、2度と戻ることはなかった[44]

ジョージアのゴリにあるスターリンの生家

1894?1899年にスターリンが通ったトビリシ神学校

少年期の肖像画(1894年)

革命家への転身1902年撮影の写真

1899年10月、スターリンはトビリシ気象台の気象局員として働き始める[45]。勤務のかたわら、社会主義理論の宣伝活動を行って多くの支持者を引きつけ[46]、1900年のメーデーには大規模な労働者の秘密会合を組織し[47]ストライキを呼びかけて実際に決行させた[48]。ロシア帝国の秘密警察であるオフラーナは、トビリシの革命的運動におけるスターリンの暗躍を察知し[48]、1901年3月には逮捕を試みたが、スターリンは逃走に成功し、以降は地下に潜って活動を行った[49]。これ以降、スターリンは友人や支持者からの寄付金に頼って生活し[50]、潜伏期間中スターリンは1901年のメーデーにおけるデモ活動の計画に携わり、メーデー当日には約3000人のデモ参加者が当局と衝突する事態となった[51]。1901年11月、スターリンは1898年創立のマルクス主義政党ロシア社会民主労働党(RSDLP)のトビリシ委員会委員に選出され[52]同月、スターリンは港湾都市のバトゥミに移動し[53]、そこでは、自身の好戦的な主張によって当地で活動するマルクス主義者らの間に不和が生じたため、一部ではスターリンを帝国政府から送り込まれた煽動者であると疑う向きも現れた[54]


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