スターリン
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諸民族の追放と強制移住は、ソ連崩壊から現在に至るバルト三国の分離・クリミア危機チェチェン紛争などと深く関わっている[注釈 14]
第二次世界大戦と冷戦 (1939?1953)
第二次世界大戦の勃発リッベントロップ(右)と握手するスターリン(1939年8月23日

第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えて、反共主義を掲げていたナチス率いるドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日ポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。ドイツの侵攻で瀬死状態にあったポーランドは、これによってとどめを刺された。ソビエトの支配するポーランド東側の領土では、ドイツが支配するポーランド西側に勝るとも劣らない圧政が行われた。「ナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領」も参照

ポーランド侵攻後握手を交わす独ソの将校

侵攻後のパレードで談笑する独ソの将校

リヴィウにおけるソ連軍パレード

ポーランド・ソビエト戦争の折に自身の面子を潰され、雪辱の機会を狙っていたスターリンはラヴレンチー・ベリヤが提案したポーランド軍捕虜2万5千人の射殺を決定した。これがカティンの森事件である。のちにドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張した。「カティンの森事件」も参照

またバルト三国への赤軍進駐を実施し、翌1940年6月にはこれらの国々の首脳を半ば恫喝する形で調停に署名させ併合した。バルト諸国ではソ連の併合に対する反発が全土に波及した。しかし、赤軍やNKVDは進駐初日の24時間以内に反ソ的な思想を持つ住民への大規模な粛清を実施し、13万人が逮捕され貨物列車により強制収容所に輸送された。その中には、後にイスラエル第7代首相となるメナヘム・ベギンも含まれている。バルト諸国には代わりにロシア人が多数入植し、現在でも禍根を残すことになる「ロシア化」が始まる。「バルト諸国占領」も参照

スターリンはドイツとアメリカ合衆国・イギリス・フランスが戦争で疲弊した後ドイツを滅ぼせば一気にヨーロッパを共産化できるものと考え、ドイツにヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などを行い、さらにソ連に亡命してきたドイツ共産党のメンバーを強制送還までさせてヒトラーの侵攻に対して便宜を図った。

不可侵条約締結後のカクテルパーティーでドイツの外務大臣のリッベントロップに対し「名誉にかけてソ連はパートナーを騙すようなことはしない」と誓ったスターリンだが、ドイツとの蜜月が長くは続かないとも考えていた[284]。上記のバルト諸国やポーランド東部占領で領土を広め首都モスクワと距離を広げ、ドイツと接する国境付近の兵力は増強され続けた。また、防衛上の観点からフィンランドにカナリア湾の譲歩を要求したが、これにはフィンランド側が反発し冬戦争が勃発。フィンランド軍の力を見誤っていた赤軍は手痛い敗北を喫した。「冬戦争」も参照

一方でスターリンは西部戦線におけるドイツの快進撃を見て恐怖し、1940年11月にモロトフをベルリンに派遣した。ヒトラーはイギリス侵攻作戦を準備中だと説明し、スターリン達を安心させた[285]。実際には、イギリス上陸作戦はすでに中止されていた。さらに、スターリンは日独伊三国同盟にソ連を交えた「日独伊ソ四国同盟」をモロトフを通じてフリードリヒ・ヴェルナー・フォン・デア・シュレンブルク(ドイツ語版)駐ソ大使に提示した[286]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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