スターリン
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ヨシフ・ジュガジヴィリはこの論文を「K.スターリン」という筆名の下で発表した[123][注釈 6]。「スターリン(Stalin)」はロシア語で「鋼鉄」を意味する語「stal」に由来するものであり[125]、「鋼鉄の人(Man of Steel)」とも訳される[126]。ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの筆名「レーニン」を模倣した名である可能性も指摘されている[127]。彼はその後「スターリン」の名を生涯使い続けたが、歴史家サイモン・モンテフィオーリは、党内で名声を得るきっかけとなった論文がこの筆名の下で発表されたことがその理由であるとしている[128]流刑中のスターリン1915年

1913年2月、サンクトペテルブルクに戻っていたスターリンはまたも逮捕され[129]、今回は脱走が極めて困難なシベリアの奥地トゥルハンスク州での4年間の流刑を宣告された[130]。1913年夏に流刑地のコスティノ(Kosutino)という村落に到着したが[131]、翌1914年3月には脱走を警戒した当局によって北極圏の端にある村落のクレイカ(ロシア語版)へと移送された[132]。クレイカでスターリンは原住民のツングース族オスチャーク族と親密な関係を築き[133]、多くの時間を釣りをして過ごした[134]。一方で、同地ではリーディア・ペレプルイギナ(Lidia Pereprygina)という当時13歳(帝政ロシアの性的同意年齢を1歳下回っていた)の少女と関係を持ち[135]、彼女は1914年12月頃にスターリンの子を出産したが、この子供は生後間もなく死亡した[136]。1917年4月頃、ペレプルイギナは2人目のスターリンの子を産み、「アレクサンドル」と名付けた[137]
1917年の革命アレクサンドル・ケレンスキー

スターリンが流刑地にいた間に第一次世界大戦が勃発し、ロシア帝国は戦時下に入った。1916年10月、スターリンは他の流刑中のボリシェヴィキとともにロシア帝国軍に召集され[138]、1917年2月にはクラスノヤルスクに赴いたが[139]、身体検査官によって腕の障害が認められたスターリンは兵役には不適格と判断された[140]。その後はクラスノヤルスクに近いアチンスクにて残り4カ月間の流刑に服すことを許可され[141]、首都ペトログラードで二月革命が勃発して帝政が崩壊した際もアチンスクに滞在していた。スターリンは3月に列車でペトログラードに帰還し[142]、帰還後は当地の『プラウダ』編集局をレフ・カーメネフと共同で引き継いだ[143]


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