スタン・リー
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また役者を志し、演劇学校に通っていたのもこの時期である[4]

1939年、タイムリー・コミックス(後のマーベル・コミック)に入社[2]。社長のマーティン・グッドマン(叔父)に編集助手を任されるが、すぐにコミックの原作にも携わるようになる。当時人気だった『キャプテン・アメリカ』は戦前から戦後にかけて脚本を担当している[1][5]

1940年、豊かな想像力を発揮して18歳という若さにして編集長に昇進[6]

1942年、兵役で3年間アメリカ陸軍通信隊に所属。軍部に(当時はまだ無名だったが)コミックライターと知られると教育用映画の脚本部[注 2] に回され、訓練用マニュアル、時事漫画、ポスターを作った[1]除隊後、同僚のジョー・サイモンなどがDCコミックスに引き抜かれる中、社長に「代わりが見つかるまで編集をやってほしい」と頼まれ[5]、グッドマンが指揮するビジネス戦略の下、当時の流行に合わせて西部劇SF戦争物メロドラマなど、多種多様な作品を量産していった[1]

1961年、50年代に出した怪奇・ホラー・SFコミックが不振であったことから方向転換を決意し、倒産を覚悟でスーパーヒーローのコミックに限りなく現実的要素をつぎ込んだ『ファンタスティック・フォー』を創刊[7]。これが人気を博し、以降の数年間でマーベル・コミックの代表作となる幾多のスーパーヒーローコミックをアーティストのジャック・カービースティーヴ・ディッコなどと共に矢継ぎ早に出していく。スタンは「フィクションに現実世界を導入させる」という試みのもとに、舞台を現実の都市としヒーローなのに生活に困窮する様子を描くなど、それまでのコミック[注 3] とは逆の視点で描き出していく[8]。また、それまでは画一的であった登場人物の台詞や言葉遣いを各人物の性格や特徴に合わせたもの[注 4] へと変更することで、物語にも弾みが出るようになり、リアリティ溢れる描写はアメリカン・コミックス全体に大きな変革をもたらした[9]。これまで堅苦しい言葉で綴られていた編集後記は砕けた文法に改め、親しみやすい雰囲気を作り、読者との間に出来ていた垣根を取り払った。

1962年、『ハルク』、『ソー』の原作を手がける。

1963年、『アイアンマン』、『ドクター・ストレンジ』、『スパイダーマン』、『X-メン』、『アベンジャーズ』の原作を手がける。これら全てのコミックにおいて社会の不平等、薬物濫用、偏見といった難題を扱った[6]

1964年、『デアデビル』の原作を手がける。10年間休載していた『キャプテン・アメリカ』を復活させる。

1968年、『ファンタスティック・フォー』の登場人物である『シルバー・サーファー』を単独シリーズ化し、その原作を手がける。これらの作品群の脚本をある程度手がけた後に、脚本業は後続のロイ・トーマスなどに任せ第一線を離れた[1]。出版業に従事するようになり、スポークスマンとして各地でマーベル・コミックの宣伝を精力的に行うようになる。

1972年、マーベル・コミックの発行責任者(社長)となるが、主な仕事である財務会議に馴染めず、他に適役がいると判断し、すぐさま辞退した[1]

1977年、弟ラリー・リーバーと共に『スパイダーマン』の新聞連載を開始する。このコミックは各国の500紙以上の新聞に掲載され、最も成功を収めたアクション・コミックとして認知されている[1]

1981年、テレビアニメ『スパイダーマン&アメイジング・フレンズ』と『ハルク』の制作総指揮を手がける[1]


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